2010年1月31日日曜日

ブログの孤独 つづく

公有地に神社が建っている。


少し前の話になるが。1月20日のことだ。最高裁は「憲法違反である」との判断を示した。報道された絵を見れば、鳥居がなければ、神社とも呼べぬ建物があるだけだ。検索してみれば一市民が提訴したという。偉い。

なぜ偉いのか。新聞によれば、同じような条件の神社は数千あるらしい。憲法の政教分離原則からみて「おかしい」と感じていたヒトは多数いただろう。しかし、身を挺してそれを提起した者はいなかった。だからこのヒトは偉い。

さて、この判決について、こんな事を言っていたら、身近にある「祠」「お地蔵さん」「宗教的道標」はどうなるんだ。「不当違憲判決だ」という声も多い。

ここにひとつの具体的事例を挙げて、検討してみたい。

正月2日、私の所属する町内会の総会に出た。昨年の会計報告を聞いていると、「お宮灯篭修理」に20万円支出とある。発言を求めて、「町内会に入っているヒトが全てお宮の氏子ではなかろう。公の金をお宮の施設に支出するのはおかしいのでは」と問うてみた。役員はどうもピンときてないみたいで、「灯篭の下で遊ぶ子供が怪我をしたらどうするのか、安全の為のお金だ」と言う。しかし、灯篭が危険なのならば、町内会がお宮側に「危ないから対策をしてくれ」と言うのがスジだろう。何の躊躇もなく、なけなしのみんなの金を使ったらしい。後日、出金を決めた役員会では、何の疑問も出なかったと聞いた。「だから、問題はない」と私に詰め寄るヒトさえいた。

結局、会計報告の「お宮灯篭修理」は「お宮への寄付」と名目を替えて何事も無く回覧されてこの件は済まされた。

つまり、このクニでは、公と宗教(少なくとも神道)との関係はこの状態なのである。「祠」や「お地蔵さん」の行く末を心配する前に、このズブズブの関係を論議して、整理する必要があろう。最高裁判決はそのことを促している。

話はすべるが、町内会への所属単位(一票の単位)は、私のところでは、「家」である。「個人」ではない。ここらあたりが「諸悪の根源」のように思えるのだが、これは、また別の話になろう。あなたのところの「町内会」はどうですか。

ブログの孤独 つづく

餅つき


正月の餅はそれとして、「旧の正月」にも餅をつくのが「ほんにのうや」の郷の習わしだ。昔ながらの農事暦ではこちらの方が、正式な餅つきとなる。これで一年を締めくくり新たな年が始まるのである。

餅つきに参加した。

蒸したお米をいれて
ぐるぐるやっていると
餅になってきた


米と同じ釜で蒸した豆を入れた
豆が次第に餅の中に入り豆餅になった。

塩を入れて味見をして
出来上がり。
義弟は、「今度は臼と杵でやろう」と言う。さて、杵の下での「餅とり」を誰がやるかそれが問題。もめそうだ。

2010年1月29日金曜日

ブログの孤独 つづく

仔犬は

終日、春のような雨がシトシト降った。乾燥気味であった畑には慈雨である。春菊、キャベツ、ホウレン草、エンドウ、ねぎ、タマネギ。など新たな成長を始めるだろう。いや、ほったらかしの田圃にも草がびっしり芽生えて、「地の皮が見えなくなって」ゆくだろう。


この雨のなか、仔犬はどうしているか。庭を見るといない。探せば縁側の奥に籠って出てこない。こっちは遊んでもらいたいものだから、「ほれほれ、これこれ」と声をかけるものの、「きょうは、遊べれん」と相手にしてもらえなかった。

考えてみれば、日にちを決め、時間を決め、約束をし、破れば罰まで決め、あくせく、アクセク、しているのはヒト人類だけかもしれない。雨が降れば休み、雪が降ればこもり、陽だまりがあれば、ひなたぼっこ。オレ達はこれでいってる派が圧倒的多数なのだ。私も混ぜてもらいたいが、「きょうは、あそべれん」らしい。

2010年1月28日木曜日

ブログの孤独 つづく

私はやってない。


元か?厚生省局長(村木何某)が「一切関与せず」と言っていると新聞は伝える。

「オレは、やっちゃーいねえよ」とチンピラも言う。それがこの世の常套句だ。それを言わぬチンピラはいない。オザワも言っている。オレはしてない「秘書が」と。そういえば、厚生省はひと昔前「妻が、妻が」とうわごとを言って失笑を買った局長?がいた。

「オレは、やってない」そうかもしれない。そうでないかもしれない。しかし、エリート(選ばれたヒト・選良)からこのコトバは聞きたくない。あなたはどう思われますか。

2010年1月27日水曜日

言葉を集めて つづく

・ 「キンヤリゴシ」

「ぎっくり腰。」とメモにある。方言辞典にはないみたいだ。正しく?は「急性腰痛症」と言うらしい。でも種まきのことを「播種」と言ったり、植え付けのことを、「定植」と言ったり、農薬をまくことを~。の類でこんな言い方は面白くもなんともない。キンヤリやぎっくりでいいじゃないか。痛くて動けないのは同じことだ、それとも、「急性腰痛症」と呼べば治るのか。それよりも、蛙には悪いが、食らおうとするカエルを「食用ガエル」と呼ぶ方がまだましである。

「きんやりごし」はこの頃トンと聞かない。ヒト人類の宿痾、腰痛は永遠に不滅と聞くにもかかわらず。

2010年1月26日火曜日

ブログの孤独 つづく


溜池の手入れ

池土堤の草刈を数日前にした。

私のブログの数少ない気まぐれ読者が言うに。コトバばかりではツマラン、絵を載せたらいかがかと。コトバはウソをつける(混じる)が絵(映像)はウソがないとでも思っているのだろう。絵もまた、ヒトの手に掛かれば(ヒトの脳髄を通過すれば)ウソばかりになる運命にある事をもうすぐヒトは識ることになるだろうに。

さて草刈の絵。これは刈る前。見上げる土堤の向こうには満々と水が蓄えられている。
よってたかって、かたずけた。慣れないと斜面を滑り落ちることもある。
上の絵は、次に行った池。堤はこんなかんじ。こちらの斜面はなにさま広いのである。

こうしてみれば、百姓はそんなに、長閑な(のどかな)仕事ではないのである。

余計を付け加えれば、このクニで1960年に念願の米の自給が実現した背景には、こういった溜池の整備、新設も多いに寄与したに違いないのだ。

2010年1月25日月曜日

言葉を集めて つづく

・ 「ハナノショウジガタオレル」


鼻の障子が倒れる。メモには「臭いことの表現」とある。ネコも木から落ちる。諍いの末にドブに落とされたものか、半身ドブ泥まみれで、ネコが帰ってきた。後ろ足を持ち上げて「ブルブルッ」と振るったりする。そんな時には「鼻の障子を閉めて」洗いにかかるものの、「鼻の障子が倒れ」そうになるのである。シュールな表現である。障子も襖も壁とドアにとって代わられつつある。

2010年1月24日日曜日

言葉を集めて つづく

・ 「ダチュウ」


メモには「とちゅう」とある。「途中」である。トチュウと言えばいいのに何故ダチュウと言うのか。それは、「途中」は「ダチュウ」でしかないからだ。(ラエの先生にとっては。)

どうして、国粋主義者はコトバを守ろうとしないのか、ここにこそ、このクニの歴史と精神が保存されているというのに。

2010年1月23日土曜日

言葉を集めて つづく

・ 「ダンヒチ」


だんひち言う。メモには「やかましく言う」とある。やかましく言い立てているヒトを傍から見ていると、たしかに的確な形容である。方言辞典には無かった。

2010年1月22日金曜日

言葉を集めて つづく

・ 「ツーツー」


「意思の疎通のいいこと・あれとあれはツーツーじゃ」とメモにある。「ツーカー」の変形版だろう。一般的には「つーつー」どうしは仲が良いのだが、例外もある。相手が何を考え、何をしようとしているか「つーかー」に解るからこそ、「むかー」とすることもあるのだ。例えばと書いて、これで止めておこうと思った。

「ツーツー」と「ツーカー」との関係はどうか。どちらが先でどちらが後か、いや、同時に生まれて、ツーカーが一般化したのか。そんなことを考えたり、てきとうに調べたりしている方が、「むかー」としないで済みそうだ。

2010年1月20日水曜日

ブログの孤独 つづく

浅川マキ


昨日、新聞の訃報欄に彼女の死亡記事があった。私が「どうしているんだろう」と「お気に入りの音楽」欄に書きつつあった時。彼女はコンサートを続けていたわけだ。まことに、ヒトの識りうる事はこの世のほんの僅かの断片にしか過ぎぬ。記事には名古屋で客死した彼女は、「時間になっても部屋から出てこなかったためスタッフらが」とある。67歳、彼女はまだおそらくあの調子で歌い。それを聞く者がいたというこの事実に私は感動している。

そういえば、『裏窓』というLPを持っている、それを鳴らして追悼しようと、探したが見つからない。そのLPジャケツトには『奇妙な果実』というビリーホリデー自伝?について彼女が語った新聞記事も入れていたのに。しかたない、頭の中の朧な記憶を鳴らして追悼しよう。「この世の住みごこちはいかがでしたか」

2010年1月18日月曜日

言葉を集めて つづく

・ 「シタカラホウテ」

メモには、00.2.13と日付のあと「下から這って・下手に出る意」とある。確か以前に「マウマウ」「ハウハウ」について書いたような気がする。「まうまう・はうはう」は自らの行為の形容だが、これは、明確な相手が居るのである。「あんなやつは下手に出ていれば機嫌がよろしい」とシタカラホウテみることもあるだろう。「ラエ」の先生から聞いた言葉。いきいきした表現と御思いになりませんか。

ところで、たとえば、「シタカラホウテ」の逆はどういうことか。最近の民主党「オザワ氏」の発言がそれである。

2010年1月16日土曜日

ブログの孤独 つづく

こう寒くては、野良に出るのもためらわれる。毎年この時期にこうしてグズグズするものだから、春先にチヤラ仕事で誤魔化して、それが、秋にまでひびくことになる。と二階で、やくたいもない思案をしていると庭で「ヒヒヒ、ほら、ひひひ」と奇妙な声がする。何事ならんと階下に降りてみれば、つれあいが仔犬をつかまえて写真を撮っている。

陽だまりがあれば、冬至を一月も過ぎたこの時期の太陽は光を回復しつつあることが解るのである。そういえば、「コーツト」のじいさんは、「冬至十日もすぎれば、アホにでも解る」と言っていたな。
私も、「ホレホレ、ウグウグ」と撮ってみた。


つれあいのも一枚貰って貼り付けてみた。


言葉を集めて つづく

歌会始め 3 


一月九日に、「『風景の中の風景』集中16篇のなかで私はなぜこれを好むのか。以下つづく」と書いたきりだ。どうして、スラスラつづきが書けないのか、おのれの中を探ってみた。
そして、「何を好むか」は、たやすく言えるが、「どうして好むのか」を言うことはむつかしい事を発見した。

話は少しずれるが、幼いココロは、互いの愛の証を互いの犠牲の量で計ったりする。しかし、どんな犠牲も愛の証明にはならないのである。好き嫌い、愛憎は計れない。計れぬものはいつまでたっても計れないのである。

そうは言っても、つづけてみようか、集中最初の詩「あるビルの風景」(これも素晴らしいできばえである)を引用し「墓地のある風景」と比べてみよう。

「その建てかけのビルは、郊外の土堤ぞいの原っぱに立っている。マンションにでもなるんだろう、一階と二階には等間隔に鉄のドアが付いていて、数えていくと各階十八部屋ずつある。三階と四階はコンクリートの枠で仕切ってあるだけなので、がらんどうのの部屋がすけて見える。五階と六階はまだ鉄骨のまんまだ。

 このビルを見ながら通勤するようになってから十一年、まわりにはカラー屋根の建売り住宅が建てこんできて人も住み始めたが、ビルにはいつも人影はなく、工事が進んだ気配はない。壁には鉄錆がしみ出し、土台に隠れてしまっている。

 なぜ、資金を無理算段しても工事を完成してしまわないのか、あるいはいっそ倒壊してしまわないのか。その決断を何千日も一日延ばしにしているこいつは、なんと優柔不断なやつだろう。

 いや、これはひょっとすると、別の決断のあらわれかもしれない――今まで思ってもみなかった考えが突然浮かんできたのは、わたしがこの十一年くりかえした病気のすえにとうとう無念の休職届けを出して、その帰り途だったせいか。

 こいつは、金も力も才覚もここまでがせいいっぱいなのに、いつかは、いつかはと歯を食いしばって、見えない努力をつづけているのかもしれない。人が住めるビルになるのが自分の仕事だから、たとえ何千何万日かかろうとも諦めるわけにはいかないのだと。その不断の努力が、不断の時の流れと拮抗しているがために、ただじっと立っているだけのように見えているのかもしれない。

 暮れかけの空に、未完のビルはくろぐろと立ちはだかり、突き出した鉄筋の先が、むきだしの神経のようにぴりぴり震えていることに、わたしははじめて気づいた。」

どうですか。私は今は無いこの「その建てかけのビル」を知っていた。そして、優れた書き手に掛かると、こう料理されるのだ、とこの詩を読んで感心した記憶がある。しかし、心の在り方をあらわす手段として、物や事を比喩として使う手法を身につければ、優れた詩人(書き手)はここまでは行くのである。いや、この手法こそ「詩」である「教えましょう」と先生がいたりするのである。そして凡百の詩が生み出される。

しかし、いざ、物そのもの、事そのものを言葉の内に現そうとすれば、「墓地のある風景」のように、そのものを「レポート」するだけで、その中に作者の国家観や歴史観が、いや、その人そのものが、いちどきに表現されてしまう優れた対象を待つしかないのである。
そんな対象には、十年に一度遭えるか、いや生涯に一度も遭えないかもしれない。それでいいのである。
歌会始めはこれでおしまい。

2010年1月13日水曜日

機械いじりの楽しみ つづく

機械いじりのゆくへ つづき



「事」であれば、どこまでやったものか、思い出したりしなければならぬが、「物」はやった時のままにそこにあるのである。私は半端百姓で米を作っているが、田を耕したり、田植えをしたり、稲刈りをしたり、そんな事をしたいがために百姓をやっているわけではない。ただ、自分の作った一碗の新米を食らわんがために、百姓をしている。だからいつも、誰か耕しておいてくれんかな、誰か、田植えをしといてくれんかな、稲刈りを済ませておいてくれんかな、と心の底から思うが、いつでも「物」は昨日やったところのままそこにあるのである。「ラエ」の先生が元気なときは、田圃に行ってみれば、耕してあったこともあったのだが。

さて、バラシてしまおう。


ここから、始めよう、OHVはOHCやDOHCに比べて簡単とはいえ、シリンダの上にこれだけの、しかけが載っているのである。これは、まだそれの一部でしかない。

シリンダは、まだ外していない。手前に置いているのがヘッドの部分。オーバーヘッドの形式はヘッド部分にこれだけの仕掛けを必要とする。

シリンダはこれ、このなかで燃料を燃やすことで、すべては始まるのである。むこうのピストンが心細げにしている。


ちょうど、近くにあったペットボトルを逆さに入れてみた、このくらいの大きさのものです。



これがクランク軸。これだけをみれば単気筒と変わりない。ただ、ふたつのコンロッドが付いていた形跡が残っている。クランクケースに載せて写したこのクランク軸について、もう少し書こうか、左からゆく。ここには、389ccにしては重いフライホイールが付いていた、重さを量れば5キログラム近くあった。ギヤがある、これはOHVバルブ駆動用のもの、これを1として、2の歯数の樹脂製のギヤがかまっていた。つぎにベアリングケース。それから、先ほども書いたコンロッドの付いていた軸。この軸と、ベアリングの付いている軸との差(長さ)×2がこのエンジンのピストンストローク(ピストンの往復する長さ)なのである。次に、大きなボールベアリング、その次には樹脂製の歯車、これはこのエンジンを潤滑するオイルポンプを動かしていた。そしていちばん右端にはアルミ製のプーリーが付いていた。ここから動力を取り出す。これだけである。

ヒトの社会の複雑さに比べれば、機械の構造は実にシンプルなのだ。

こころの屈折したときには、機械をバラスことをお勧めする。先人の工夫と勘違いとがそこには詰まっている。

ブログの孤独 つづく

仔犬


どうも、仔犬が可愛くっていけない。一月ほど前つれあいに「犬が仔を生んどる」と聞かされて、のち、気にはなっていたものの、庭の片隅で母犬と潜んでいたモノが現れた。ヨタヨタとぼんやり逃げまわるものを、追いかけるまでもなく、手にとって見れば、思いの外、持ち重りがして、ほんのりあたたかい。「ウグウグ」としか鳴けないが、腹がへっているものであろうか。よせばいいのに、絵を撮ろうとした。


これがその絵、尻の部分。

こうして、小さな命を「ネコっかわいがり」(今はいぬっかわいがりか)していると、ついヒトラーや、ゲッペルスを思い起こしてしまう、彼らは、身近の命を愛でることにおいては、我々と何の変わりもなかった。道連れにしたが、ゲッペルスは六人の子の父親でもあった。ヒト人類の存在の不可解さを仔犬の尻に思うのであった。
付け加えれば、この新参者を、他の成犬どもは、つかずはなれず、見守っているようだ。仔犬に与えた、牛乳浸しのパンを横取りしようとしないのは、ヒトよりもりっぱでもある。と思った事だ。

2010年1月10日日曜日

機械いじりの楽しみ つづく

機械いじりのゆくへ


どうやら、陽の光のあるうちは、屋外で機械をいじり、飽きればコトバというパターンが、私にはあるようだ。



さて、ギヤボックスをバラシてみよう。絵の上の長い軸が車輪を回す軸である、下の短い軸は変速の必要な動力を取り出す軸である。下の軸に隠れて見えないが、エンジンからの力をこのギヤボックスに入れる軸がある。こうして書けば、もうお解かりのように、ギヤボックスの仕事はそれにつきるのである。力をつなぐか切るか、が先ず第一の仕事、次に、繋ぐとすれば、どのくらいの割合でそうするか(この場合は回転スピード)を調節する仕事が第二の仕事。それだけである。


バラシた絵、30年前に組み上げられたギヤはそのままに錆びることなくそこにある。ギヤケースはアルミ製、歯車は鉄製である、必要な軸にはベアリングがかませてある。このギアボックス設計者は全てにベアリングを使っている、このギアボックスだけを取り出せば、後百年は使えるだろう。私は夢想することがある、千年後、ギヤボックスを掘り出した考古学者がその歯車の美しさと論理構造に驚く事を。


エンジンにかかろうか。発電用コイルと点火用センサーが付いていた蓋を外すと、ふたつのギヤが現れた、このギヤの歯数は一対二である。数えて見てください。と書いて絵を見れば、少しむずかしいか。ともあれ、ベンツであれ、運搬車であれ、およそ四サイクルエンジンの基本はこれである。むろん、資本主義生産様式で作ろうが、社会主義生産様式で作ろうが、この歯数比は変わらない。
歯数の多い方の歯車は樹脂製である。シリンダーヘッドにある吸気弁、排気弁を動かすだけの力しかこれには掛からぬからそんなに丈夫でなくていい。しかし、樹脂で?とは、とこの絵を写した後外しにかかると、簡単にぼろぼろに壊れた。
ギアとギアとのかみ合わせ部分に小さくマークが打ってあるのをお気付きだろうか、この歯車は、互いに組み合う相手の歯が決まっているのである。運命の赤い糸は、私の介入によって長年の呪縛から解放された?のであろうか。



つぎにオイルパンを外した、この絵はエンジンを真下から見たものである、中央の四つのボルト部分がクランクに付いているコンロッドの部分である。予想したようにふたつのコンロッドがひとつのクランク軸に付いていた。この上下のボルトとボルトの距離が上から見たシリンダのずれの距離なのである。私は素人であるから、ここからは想像だが、V型二気筒は単気筒の変種、応用でやれるものらしい。三、四、五、六、と気筒数が増えればまた別の話になりそうだ。付け加えれば、V型2気筒を単気筒と考えれば、V4は二気筒、だしV6は三気筒、V8は四気筒、V10は五気筒、V12は六気筒なのである。自動車のエンジンにV8までは、よく使われている。そしてV10、V12はF1のエンジンによくある形式である。こうしてみれば、我々はここ100年、同じ歌の変奏を歌って来ただけ、なのではないのだろうか。

2010年1月9日土曜日

言葉を集めて つづく

歌会始め 2


手練の自白調書「あとがき」を鵜呑みにするわけにはゆかない、「墓地のある風景」を書き写してみよう。

『松や樫の枝が覆いかぶさる暗い石段を上がっていくと、タイムトンネルをくぐっている気分だ。九十三まで数えて昇りきると、そこから視界がひらけ、階段状にひろがる旧陸軍墓地である。足もとから玉砂利の道がまっすぐにのび、正面はるかに石塔が聳えている。曇天である。人影はなく、物音もしない。
 
 第一段は上等兵の墓地である。腰の高さほどの墓石が四列縦隊で整列し、百九十二柱ある。前に立つと「故陸軍工兵上等兵、昭和八年八月十九日於旅順陣歿、行年二十三才」「故陸軍歩兵上等兵、昭和八年九月八日於岡山衛戍病院戦病死、行年二十二才」などと直立不動で答える。 
 第二段も上等兵の墓が続いて百二柱あるが、途中から伍長の墓に変わってこれが百二十四柱である。伍長は上等兵より背が高いので境界は一目瞭然である。
 第三段は軍曹、曹長、准尉の墓地で六十四柱である。墓石は階級が進むたびに高くなり、准尉になると首までくる。
 第四段は少尉からはじまり、これが頭の高さである。中尉、大尉、少佐、中佐とますます高くなり、手をのばしても届きかねる大佐で終わっている。この段は敷石もゆったりしていて三十六柱である。 
 第五段には「満州事変忠死者之碑」(昭和八年三月建之)の石塔を中央にして「歩兵第十連隊戦病死将兵合祀之碑」と「工兵第十大隊戦病死将兵合祀之碑」の石柱が高く天を突いている。それだけである。大佐以上の墓と上等兵以下の墓はどこにも見当たらない。
 第六段は最近山を削って造成した墓地らしい。およそ縦三メートル、横六メートルに及ぶ大きな碑が建っている。黒光りする模造大理石に「大東亜戦争戦歿者慰霊碑、昭和五十二年建之」と彫り込まれ、県知事の署名がある。それだけである。満州事変以後の戦病死者はあまりの多数にのぼったためか、敷地がなかったためか、墓石は階級のいかんにかかわらずいっさい省いてある。 
 そして第七段はない。墓地も山もここで行きどまりである。もう碑一つ建てる余地もない。  

戦争の世紀から回れ右をして下界へ降りかけたとき、頭上のぶあつい雲が切れ、陽光がさっと射してきた。そのまぶしい閃光に照らしだされて、尾根伝いにつらなる住宅団地が浮かび上がった。それは階段状に山裾を下りながら眼下の市街へなだれこんでいき、まるで真新しい墓石の群れのように光っているのであった。』

以上である。全文である。一読して「レポート」である。観察記録である。『風景の中の風景』集中16篇のなかで私はなぜこれを好むのか。

以下つづく

2010年1月8日金曜日

機械いじりの楽しみ つづく

さて、機械いじりを続けよう。マフラーを取り、キャブレターを外し、燃料ポンプをはずした。絵



こうしてみれば、V型という意味がよく解かるだろう。バンク角は90度であるか。

フライホイールを外すとふたつの発電用コイル、とふたつのセンサーが現れた。センサーの位相が90度になっていることに注目して下さい。これはシリンダーの位相に相応する。つまり、点火タイミングのためのセンサーだろう。大きいやつは、発電用コイル。ひとつは点火用電力にひとつはバッテリー充電用だろう。



上から見れば、V型エンジンのシリンダーはほんの少しずれている、ことが解るだろう。クランクケースの中でひとつのクランク軸にふたつのコンロッドがさばっていると考えた。


こうしてみれば、たいていの農業用エンジン、単気筒に比べて、複雑であるし、たいしてコンパクトでもない。ことに気づかれるだろう。
なぜこれを?という疑問の答えはただひとつ「作ってみたかった」だけなのだろう。私には他に思い当たらない。
1977年製造、だったか、我々は若かったし、クボタもまた若かったのだ。
余計を付け加えれば、今このクニの工業が他国に比べ、多少優位にあるとすれば、「やってみたいからやってみる」精神、(数々の失敗の歴史)が支えているのだと考える。クボタにせよ、こんなことをしていては利益は出ないだろう。しかし、それがどうした。

2010年1月7日木曜日

機械いじりの楽しみ つづく

「歌会始め」を始めたのだが、生来腰の据わらないたちで、機械イジリを始めてしまった。



表紙の絵は井関のコンバインの6本替えたベルトとひとつ、よくぞ今までもっていた、エライ。それで、今イジッテいるのは、クボタのコンバイン、「HX350 」、数年前までは現役だったが、結束機部(アルミ部品部分)が壊れて、廃品になった物を譲り受けた。なんと、これのエンジンはV型2気筒、弁機構はOHV。ガソリン仕様。つまり、ハーレーと同じなのだ、すっかりバラシて、エンジンの絵を撮った。検索すれば、クボタ製のこのエンジンは、1977年に作られたものらしい、「GN2900」がこれに付けられた名前。排気量289cc。ちなみに、ベルトを替えた井関のエンジンは単気筒SV(サイドバルブ)341ccである。この当時のコンバインは軽四の半分のエンジンで、田圃をこま鼠のように走り回っていたのだ。
悲しくも、けなげで、非力で懸命。これが我々の本来の姿ではなかったか。バラシながら、そんなことを考えた。
もう少し、付け加えてもいいか。ココロネ、のことではなくこのエンジンのことである。
キャブレターを高いところに持たざるを得ない構造上、そして、ガソリンタンクをキャブレターより上に置けない制約によりこのエンジンはフィーエルポンプ(燃料ポンプ)を持っているのである。絵では、マフラーの向こうにポンプその上にキャブレターである。(ついでに、動力取り出しのアルミ製プーリーがひとつだけなのも確認してください)
このコンバインをバラシながら、設計者が、より軽く、よりコンパクトにと腐心した様が随所に見られた。樹脂製部品、アルミ製部品の多用とか、エンジンからの動力をひとつのプーリー(これがアルミ製)に出し、それを空間度の多い、車体の反対側まで軸で運び、それを分配する構造。などなど。
こうしてみれば、電気モーターを動力とする、トウス、乾燥機、米選機、などの設計はたやすいと思えてくる。
昨今の自動車の電気モーター化は電力供給のハードルをクリヤーすれば、技術的には難しくはないのである。

2010年1月5日火曜日

言葉を集めて つづく

歌会始め つづき 1


言葉は長い間、ヒト特有のもの、と思われてきた。最近では、犬もネコも鯨もゾウも、言葉を使うらしいということになってきた。鯨やゾウは身近にいないが、犬猫はいる。私の使う言葉で彼らと話をしたことは一度もないが、鳴き方、吠え方、こちらを見るしぐさ、でやりとりをしている、で、不自由はない。もっとも、「私が」であるけれど。

さて、ヒトは書く、文字までも。書くだけで好しとせず、ひとまとまりにしてそれを、「歌」だの、「詩」だのと名づける。公平に言って、かなり、不遜にして大胆な行いであるといえるだろう。

今回は、それをとりあげたい。

『風景の中の風景』坪井宗康詩集と表紙にある。1986年、手帖舎刊。「あとがき」として「夫は、この散文詩集を出そうとしていた矢先に、急死しました。卓上のノートに次のような走り書きが記されていました。『私は瀬戸内のこの町に生まれずっとここで暮らしている。町の風景は毎日見なれた風景である。しかしふとした折々にその見なれた日常の風景の中に動く時代の影や自分自身の姿を見出して足をとめることがある。そんなとき私は初心な画家がたどたどしく絵の具を重ねるように、不器用な手つきでことばをかさねながら我流の風景画を描いてみるのである。』この遺志を、いま詩集の形にすることができましたことは(以下略)」
簡素にして意を尽くす「あとがき」である。彼は良き妻を得た。

もう脱線している。話を戻そう。

どうして、もの書くひとは、晩年になると良くなるのか。集中、「墓地のある風景」を読んでみよう。

(以下続く)

2010年1月4日月曜日

機械いじりの楽しみ つづく

コンバイン3


晩秋になれば、稲田をこま鼠のように、走り回っているコンバインの歴史も、こうしてみれば最近作られたものなのだ。我々は激動の時代を生きている。流れの中にいれば気づかぬだけだ。今日の常識は明日の非常識になるし、今日の非常識はあすの常識になるやも知れぬ。その中で変わらぬものは何か、変えてはならぬものは何か、いや、変えなければならぬものは何か、をこの一連のブログでは追求しているつもりなのだが。

話を戻して。

さて、この機械を一言で表すとすれば、と半日考えて、「大道芸のひとり音楽隊」を思い付いた。前に小太鼓を下げ背中にはシンバルを背負い、頭にはラッパを載せ、口にはハモニカのあれです。チンジャラ、チンジャラ、タッタカ、ジャヤーン、プー、歩くたびに、シンバルを鳴らして。

この機械は前で稲を真っ直ぐに起し、そろえて掴んで切る。だけでなく、それを、運んで腹の部分で稲を横向きにして脱穀をする、そして落とした籾は袋かタンクに溜める。その上に、藁を、後ろに送り、切り刻んで撒く、お好みとあれば括(くく)って差し上げます。という驚くべき機械なのだ、それも移動しながら連続してそうする。あの機械の中に少なくとも三人のヒトが入っていて忙しく働いているイメージを思い浮かべてみてください。思い浮かばぬか。

ここまで書けば、前回述べた、ベルトの多さも理解していただけるか、つまり、エンジンからの力を、刈り取り部、脱穀部、切り刻み部、に送るには少なくとも三本。その上、移動のためにも、油圧ポンプ駆動のためにも、まだまだベルトはいる。では、どうしてベルトなのかについては、私なりの答えはあるが、またの機会にしよう。

この八面六臂、「ひとり音楽隊」のコンバインからみれば、百姓の使う他の道具、「草刈り機」は危ない刃物を振り回しているチンピラなだけだし、「トラクター」は図体のわりに土を掻き混ぜているだけの単細胞である。「運搬車」に至っては、「運ぶだけ?何それ!」なのである。
ここまで書くと、「田植え機」はどうなの?という声が納屋の隅から聞こえてくる。ベルトの一本も無いようなヤツが生意気な口をきくな。春まで待て。

2010年1月3日日曜日

機械いじりの楽しみ つづく

コンバイン2


次の日、二日。二日酔いを冷ましがてら、納屋にこもった。昨日バラシタ続きをバラス、元に戻せるよう慎重にやる。コツといえば、外さないで済むものは極力外さないことか。元に戻さなくてもいいのなら機械のバラシは簡単だ、コンバインなら、二台バラシタ事がある。何度も吼えながら、組み上げたのは夕方だった。試運転をしてみれば、大方は問題ないみたいである。仮締めしたままで、本締めを忘れたボルトが無ければいいのだが。

このコンバインは、井関のHL60という機種である、いつごろ作ったものか、検索してみたが、解からない、1967年に初めて国産の物を作ったとあるから、その次の世代のものだろうか。乗用式ではなく、後ろを歩きながら操作するタイプである、それの最終型かもしれない。燃料はガソリン、エンジンは紐を引いて人力で始動する。いづれにせよ、もう何台も現存していないのではないか、井関のホームページにも載っていない。

10年程前に来た時、足回りセンサーは外した、機械は弱い所から壊れてゆくが、コンバインの弱点はセンサーにある、泥や水分の中ではセンサースイッチはもたないのだ、今でもそうなのだろうか。

数えてみれば、このコンバインには全部で、12本のベルトが使われている、どうしてこうも複雑(怪奇)なのか、何故チェーンやギヤを使わないのか、それらに耐久性において圧倒的に劣るゴムベルトを使うのか。

2010年1月2日土曜日

機械いじりの楽しみ つづく

コンバイン 1

年の暮れから、正月にかけて、テレビには「気は優しくて力持ち」のいい男が入れ替わり登場していた。そうなると、どうなるか、テレビの前は女どもに席巻される事となった。こちらは、テレビの前の女どもに振り向きざまに「気は短くて、力なし」と言われる前に。正月一日から納屋にこもって、コンバインをいじっていた。

このコンバインは、「ラエ」の先生が稲作をやめた時に譲ってもらったもので、先生がしっかり使い込んでいた物だ、私の所に来ても10年になる。年の暮れ、掃除をしていたら、切れそうなヨレヨレのベルトを見つけた、他のベルトも見てみれば、まともな物は無いみたいである、計6本替える事にした。今でもそうなのか、最近のコンバインをいじった事が無いから解からないが、消耗品のベルトの交換は信じられぬほど機械の深部にあったりするのである。エンジンを下ろした方が良かろうと見当をつけて、ベルトを購入し、正月になった。そうすると、「いじりの血」がさわぐのである。まるで、「ラピュタの石」みたいに。
製造した時にしめたままの、30年近く経ったエンジンを固定しているボルトは、はたして緩むものか。
これは、論理では解決できない、気になるのであればやって見るだけだ。で正月一日からやってみることとなった。