2010年10月31日日曜日

籾の乾燥

稲刈りが終わると次は、籾を乾燥させてみよう。(稲刈りについては後日書く予定)
「ラエ」の先生から譲ってもらった乾燥機に籾を入れて、今年は常温で乾燥させている。バーナーを焚いて(40℃で)乾燥させれば、1時間に1%の割合で乾燥するのは経験上わかっているのだが、今年は常温(20)でやっている。理由はやってみたいそれだけなのだ。しかしこれが、なかなか乾燥しない。5時間で1%いくかどうかだ。遠くない昔、ハゼボシ(稲架干し)で乾燥させていたのだから何とかなるだろう。と高を括って記憶を辿れば、そういえば、「コーツト」のじいさんは脱穀した後、籾をムシロ()の上に広げて乾燥させていたのを思い出して少し不安になった。今日みたいに、雨模様で湿度70%の空気を当てて、はたして、水分量15%の籾になるものかしら。
思案の後、パソコン先生のO氏に聞いてみた。先生は理系を自任してる。「せんこたーなかろう」とあれこれ説明してくれる。先生によれば、「飽和水蒸気量」というものがあって~~。私の解ったのは、たとえ70%の湿度であっても、30%は乾燥させる能力があるらしいということだ。(先生は、飽和水蒸気量の表をメールで送ってくれた。)下手に、科学的知識を持つとますます混乱するのかもしれない。私は、ヒトの気持ちのあふれて涙になるように、空気の持ちきれなくなった(飽和した)水分が霧や雲や雨や虹になるようすを想って、少しくロマンチックになっただけである。
日も暮れてきたようだ、籾は少しは乾燥したかしら。
ラエの先生の乾燥機
こんな皿にのせて
こんな器具で水分を計る

2010年10月30日土曜日

おふくろの横書き

オフクロの横書き
あなたは、メモを縦書きにしますか、横書きにしますか。メモは紙に縦横を意識せずに書き付けるものだから、ヒトによって違うみたいである。強いて言えば、年齢による違いがあるようだ。
私の母親は80歳半ばだが、私へのメモはずっと縦書きだった。ところが10日ほど前に全身麻酔の手術を受けて、退院して3日目の今日のメモは、横書きに変わっていたのである。今まで、一度たりとも、例外なく縦書きだったものだから、驚いた。
これが、気まぐれなのか、このまま続くのか、興味津々である。
言うところのメモ、こんな具合。
以前のメモ(ボールペン・日付は私の覚え)
ちなみに下に、70歳半ばの叔母から私へのメモ(これはなんと墨書)
最後に、私の、私へのメモ(鉛筆書き)

2010年10月28日木曜日

稲刈りが終わった

稲刈りが終わった。
目線を上げてまわりを見てみれば、まだ刈っていない田圃が今年は目立つ。私のところのような、谷間に作った棚田よりも、大きな河川の沖積平野の田に、刈り残している所が多いようだ。「早く刈ったらいいのに、何をしてるのか」と言えば、つれあいは「自分がさんざん、ハラハラさせてたくせに、みんなホッとしてるわ。何ぬかしてる」と冷たい。どうもオンナは視野が狭くていけない。
それにしても、何故なのか。農協に聞いてみた。すると、「飼料用稲は田圃で乾燥させて刈り取るように指導しているからそれかな?」とか、「週末ごとに、雨だったからですかね」と要領を得ない返事ばかりだ。つまるところ解らない。
台風模様である、この週末も雨だろう。理由はともあれ、しばらくは、刈り取り前の稲を見ることになりそうである。

2010年10月26日火曜日

お好み焼き



稲刈りをしていたら、ご褒美に?キャベツを貰った。Uさんは遠くから、身振りであぜ道に停めた私のカブの荷台を指して「ここに置いとくからね」と言い、私も身振りで「ありがとう」。

これで、お好み焼きを作ろう。

キャベツとモヤシその上に、小麦粉とタマゴと出汁の素を適当に入れて、その上に牛乳を入れる。水の代わりだ

ぐちゃぐちゃ混ぜるとこんなになった。大丈夫かというほど軟らかくてもそれでいい。心配なら、粉をいれるより、タマゴを足した方がよろしい。


具はこの三種類で行こうか、海老、イカ、ブタ。

焼きにかかる。
ひっくりかえしたところ。
できあがり。弱火でじっくり火を通すのがコツだろうか、焼きにかかって15分はかかるだろう。この時間を待てないと、「子供だ」といわれてもしかたない。

2010年10月25日月曜日

国会は面白い

国会は面白い
NHKは民間放送のような番組作りに熱心だ。えてして、そんな番組は民放の二番煎じだから、旬を外していて、面白くないことはなはなだである。「こんなんで、金を払えってか」と思ったりする。
ところが、珍しく残っている古参番組のひとつ、国会中継はお笑いの宝庫なのである。
例えば、25日お昼過ぎのシーン。
自民党の議員が、民主党内閣に質問している。畳み掛けて攻めている。
「・・大臣、こんな答弁でいいのですか」「(そうだ・よくない)」注、これは野次。
「・・・官房長官、度々の失言。目に余る、やめるべきだ」「(そうだ・やめろ)」注、これも野次。
調子のいいヨイショの野次に励まされたものか、余裕なのか、次の発言。
「こう言う、私も、決してこれまで清廉潔白な議員であったわけではないのでありますが」「( ? )」注、(そうだ)のタイミングで野次ナシ。
国会は滑稽の宝庫だ。一見をお勧めする。

2010年10月24日日曜日

今日は稲刈り

きょうも稲刈り
背中や腕や足に鈍い筋肉痛はあるが、今日も今日とて稲刈りだ。と、田に行けば、隣で畑作をしているS氏に捉まった。彼は呼止めるやいなや「お願いと言うよりも、要望じゃな」という口調で始めた。
S氏は、市内から毎日この谷に通ってさまざまな作物を栽培している、もう5年ほどになるか。「ワシは観光農園をしようと思うとる。来てもらうヒトに気持ちよく居ってもらいたい、だから、畑の周りの草も刈るし、道の草も刈る、水路の草も刈る、そんな事あんたは知らんじゃろう。あんたは、池守で水利組合の世話をしとるんじゃけど、水路や道をキレイにするのは水利組合の仕事じゃねんかな」かいつまむと彼の要望はこういうことだ。
そういう理屈も成り立つな、と感心した。しかし、我が水利組合のたかが5本程の草刈機で、それは、一日では無理だろう、対象の面積はかなりのものだ。おまけに、夏のシーズンに何回かはやらないと彼の望むレベルにはならないだろう。
つまり、水利組合の掃除は、田畑の耕作に支障の出ない最低の範囲でやっているのだ。比喩でいえば、「住居」の掃除なのである(手抜きは誰しもあろう)。彼の言うような、「店舗」の清掃レベルとは違う。そんな説明に「勝手にせえ、という事かな」と彼は激昂したりする。
たしかに、ジリ貧の農業は、何んとかしなければ滅びてしまう。彼のように、「なんとかしよう」という試みの芽は摘んではいけないのである。たとえそれがいっけん無謀にみえるにしても。と考えた。
いやむしろ、ヒトの目が離れれば、市街地に近いこんな谷は産廃業者の格好の餌食になるだろう。立場の違いによりヒトの想いは互いにすれちがうけれど、これは止揚不可能な矛盾ではない、とも考えた。
彼の目が、私の後ろを見る。振り返ると、つれあいが、稲刈り装束でいる。オオ、そうだ、稲刈りだった。「また、おはなししましょう」とコンバインを動かしはじめる。近くで、彼女は弥生の刈り取りみたいに、稗の先だけ摘んでいたりしている。「そんなに一緒にいたいのか」と思ったりしたが、マチガイだったようだ。適当に稗の頭を刎ねると、「そんじゃあ」とさっさと帰っていった。
朝から、田圃には行ったようだが、あの男の事だ、「さぼって」いはしないか見に来たのだ。

2010年10月22日金曜日

茸を前に

茸を前に考えた

「ほんにのうや」の郷(つれあいの実家)から茸を貰った。




さっそく、出汁をひいた。これに茸を放り込んで食おうと思う。味噌でゆくか、醤油でゆくか、塩でゆくか。その汁に豆腐を入れてもいい、うどんもいい、飯を入れて雑炊はどうだ。こうして欲望は果てしなくひろがる。

豊作だというから、今年は茸があっちの家からこっちの家、こっちの里からあっちの街に贈答されているのではないか。それは、地縁であったり、血縁であったりする。政治家がらみの贈収賄と違って、すべて無償だろう。
すさまじい勢いで、あらゆる物が商品となってゆくのが、この時代の特徴だと考えるが、市場経済の枠から外れているこんな、昔ながらの「もの」の遣り取りもある。
ところで、市場経済の最先端を走っている、インターネットの世界で、無償が巾を利かせているのは、面白いと思う。このブログの記事だって無償である。(私からのささやかなプレゼント・いやならポチッとすればいい)
さて、この先のこと、無償が有償を取り込むのか、有償が無償を取り込んでしまうのか。それとも、こんな問題の立て方は間違っているのか。茸の汁をすすりながら考えようか。



2010年10月19日火曜日

稲刈りの前に

今日は稲刈りをした。その報告をしようと思う。どういう形でするか迷っている。田植えから始めなければ、わかってもらえないとも考えている。稲に対しての最近のモチベーションの低下も書かねばとも思う。我が愛機、井関フロンティアHL60コンバインの雄姿を見てもらいたいとも考える。絵も撮ったし。とココロ、千路に乱れて、何故か「ペン・タブレット」を購入した。さて、始めよう。
と書いて、その前に、今日のニュースで「これは」と思った事が思い出せない。しばらく、政治でもない、芸能でもない、と記憶の断片を辿っていると、そうだ「熊だ」と思い出した。住宅街に現れた熊の親子の映像の事だ。居合わせた車が威嚇のクラクションを鳴らした。すると、母熊がその車を威嚇したのだ、仔熊はウロウロと車の前にいたと記憶する。この母熊の行動に私は「これだ」とココロ動かされたのだ。「母」とはそういう存在ではなかったか、(ここに「父」が居ないのは残念だが、たいていは居ないのだからしかたない。)
生物(動物)の子育てはいつも命懸けだ。ヒトの子育てが時としてそうではないのは何故か。その事を考えている。
稲刈りは、残り三枚。疲れて、グダグダだー。

2010年10月17日日曜日

キツネのゆくへ

そのあとのキツネ
私が「ホッパー」と呼んでいる籾を入れる仕掛けを組み立てた。










すっかり暗くなった、今日はここまで。家に帰れば、キツネの完成は家の者どもが済ませていた。そして。すでに大半が家の者どもの腹に収まっている。あわてて写したこれは、あの噂に聞く遠慮のカタマリと言われるものであろうか。








ここまでくれば、稲刈りするぞ。敵討ちだ!。?

2010年10月15日金曜日

習性その2

きつね
「稲刈りといえば、キツネ(寿司)でしょう。」と誰もいってくれない。で自分で言うことにした。「知らないだろうが、歳時記にも載ってるんだぞ」ウソ。ただ、キツネが食いたいだけなのだ。でも、どうなんだろう、このオトコ、片手にカメラ、片手にキツネ。どうやって稲刈りをするつもりなんだろうか。
きのうの事だったか、「どうも仕事がはかどらない、何が原因なのか調べてみる。」とカチャカチャ、キーボードを叩いていると、「それが原因に決まってる!」と叱られたばかりだ。反省反省。
さて、きつね寿司といえば、揚げをこうして



水と砂糖と醤油を適当に入れて、インスタント和風だしみたいなものをいれたかどうだか忘れた。おとしぶたをして弱火でクツクツ、15分も煮ればできるだろう。火を止めておいておけば、アゲに味がしみる。
さて、酢飯をつくり、裏返しにしたアゲを用意して、片手に丸めた酢飯を持ち、片手でアゲをクルッとかぶせるようにして包んでみよう。
これははこれから。乞うご期待?

習性その1


「そんなことない」私に限っては。とは言わせない。みんなそうに決まっている。やらなければならぬ事を前にすると、つい他の事に走ってしまう。
これは、ヒト人類だけなのか、イヌやネコはどうなんだろう。
パンを焼いた。









さて、次は、稲刈りのほかの何をしようか。

歌と歓声のあとに

歌と歓声
ペルーの奇跡の救出劇がライブの映像で流されている。解りやすい説明と解りやすい映像。まるで映画みたいだと見ていると、後日映画にするという話もあるという。
「報道」の中身と「現場」の真実との間には必ず、矛盾・ズレがあることは、知っての通り当然のことだ。あまりの手際のよさに、ヨーイ、ゴオ・ヨン・サン・ニイ・イチ・ハイのデレクターの手があるようにもみえた。
私が心配していることは次のこと
1.            解りやすさの為に、救出が遅らせられたりは、しなかったかということ。
2.            過去に同様の事故を起こしていたらしい、この鉱山の安全管理の問題がうやむやにならないかという事。
これ以上の被害が、救出された労働者に及ぶ事のないよう祈っている。
奇跡は稀にしかないから、奇跡なのだし。神風はついに吹かなかったのだから。感動物語の後は労働の安全の問題で、今以上に盛り上がって欲しい。

真実は解りやすい映像には映らないだろう。見ようとすれば、我々の内にある、想像力と思考力を駆使して見るしか、映像の向こうの本当を照らす事は出来ないのだと考えた。

2010年10月12日火曜日

きょうの調理

きょうも調理
稲刈りの準備をしている。だから、いつもよりは忙しい。でも、「ピッチャー交代」のアナウンスはないのである。「監督がアホやからやってられん」と言おうものなら「代わりは幾らでもいるんだぞ」みたいなもんか。
カレイの煮付け。


酒を適当に、ニンニクのかけらを入れて、醤油はお玉一杯(90cc)ぐらい、後は好みで砂糖をお好きなだけ、これから10分ほど煮るので、水分が少ないなと思えば水を足して。落し蓋。


落し蓋を取ればできあがり。やはりこれは、パンよりも飯が合うだろう。稲刈りをするか。
ご覧のように、パソコンの調子はいいみたいである。コンバインの調子はどうかしら?
このブログの良き?読者?O氏は、パソコン不調の診断を頼めば「なるようにしかならん。字も絵も入っとるが、なんが問題なん?」と一蹴した後、「お百姓の話題面白いわ、もっとつづけて書かれえ」と言う。「稲刈りなんか、絵を入れて、いいと思うでー」とも言う。
書いてもいいけど、しかし、私はひとりっきりの戦闘員なのである。その上、戦場カメラマンに成れってか。あまりの相手の攻撃に塹壕の中で頭を抱えている私が、腕だけを伸ばしカメラを自分に向けてカシャ。?
でも、やってみるか。乞うご期待。

2010年10月11日月曜日

今日は押し寿司

押し寿司
きのうは、祭りだったみたいで、遠くに笛の音が聞こえていた。神輿を担がなくなってどのくらいだろう、最後の何年か「担いでくれ」と頼まれて二三回断ったら疎遠になった。神さまの方もこいつは「神も仏も無いヤツ」と見定めたのだろうか。
さて、遠くの笛の音を聞いていたら、寿司のたぐいが食いたくなった。「ちらし寿司」もいいが、少量作るのは面倒だし、煮物と同じである程度の量を作らないと「ウマイ」という味にならない。幸い、冷蔵庫には数日前に漬けた、サゴシの酢漬けがある。酒のつまみにしていたが、これで、押し寿司を作ろう。これなら、量の多寡の影響はないだろう。
バットにラップをひいてその上に酢じめのサゴシ、皮の部分は下に
酢飯を作って
酢飯を冷まして詰めた。やかんで重しを
やかんには水を入れている
しばらくおいて裏返した絵


こうしてみれば、己が何を興味としているかが解る。「結果」もさることながら、興味の相手は「過程」なのだ。先日、料理と絵との関係について書いた。私は食らう寸前の皿に載った料理に興味がないみたいだ。また、台所に運ばれる前の素材についても同様だ。わたしの興味は、或る物をどう受け止め、それを、どう加工しようとしたか、その理由は、そしそ加工はどうなったか、ならなかったか。それだけだ。

ヒトは己の好むものにしか反応しない、それでいい。人の命は、当人がもくろむよりいつも少しだけの短いものなのだから。
ところで、この寿司はイケテました。食べてる家の者を観察すれば、一切れ食いつつ、目は次の一切れを狙っていた。







2010年10月10日日曜日

ノーベル賞

ノーベル賞の
と書いて、次に「権威・利用・価値」のどれを書こうか迷っている。マスコミによれば、平和賞というのが、クニとクニとの関係までギクシャクさせているみたいだ。たかが賞だが、されどノーベル賞、「権威」はクニをも本気にさせている?
ところで、この賞はクニが貰うのかしら、個人じゃなかったっけ?最近、ニホン人が貰ったとクニをあげて騒いでいたが、ニホンのクニが貰ったわけではなかったろう。
ノーベル賞に限らず、どんな賞でも、賞の「価値」を定めるのは歴代の受賞者達の質の良し悪しじゃなかったか。どこのクニとは言わぬが、それで彼のクニの「勲章」なるものの価値は地に落ちているみたいだ。そういえば、この国でも元首相S氏の平和賞に「へぇー?」みたいな空気が当時あったよな。
そうしてみれば、「どうして、あんなインチキなやつが賞に価するのか、ノーベル賞も落ちたものだ。」と無視するのが、周りの者の精一杯の反応だろうに、なんでこうなっているのか。どうも、クニなるものがノーベル賞の権威を逆に「利用」しようとしているスケベ心が透けて見えるような気がする。
繰り返しになるが、この賞はあくまでノーベル財団と個人とのことにすぎない。ギャラリーにできることといえば、拍手するか、無視するかだけだろう。
それはそうと、私にノーベル賞がやって来たら、クニはどう反応するかしら、拍手だろうか、無視だろうか、いや、その前に腰をぬかしてひと言もないか。
と、ここまで書いて悦にいっていたら、後ろから、「またカチャカチャなにしとん」ギク!「雨もあがってるし、稲刈りどうするん」ん?「まったく、あんたの怠け癖はノーベル賞もんだわ」の声が聞こえてきた。そうか、もう貰っていたんだ。

2010年10月9日土曜日

料理

料理はつづくよどこまでも~~
たいしてご機嫌でもない、さてきょうもきょうとて。



料理を絵にしたりブログに吊るしたりする味気なさについて、あれこれ考えてみた。
まな板の上に、鯖がゴロンとしている、今日ならば、尾頭付きのブタが横たわっている。これは、絵にならない。また料理には刃物が欠かせないが、それが、ゴロンと転がっている、これも絵にならない。なぜだろうか。
絵にする前のそれらは、そこにあっても問題を起こさない。絵にした途端、それは据わりの悪いものとなる。
これは絵を見るこちら側の意識が、つねに絵に意味を見出そうとしているからではないのか、意味を持つ以前の物そのものの持つ無気味にヒトは耐えられないのではなかろうか。
したがって、ブログの絵の鯖は捌かれつつなければならぬし、刃物・包丁はヒトの手に持たれて何かを切りつつなければならないのだ。そうすれば、そこには意味が付きまとう。
さて、これが、キュウリならどうか、ナスならどうか、想像してみてください。

またまた池のこと

雨が降っている。村の道を傘をさして歩いていると、四つ角でばったりY氏に合った。Y氏は、百姓の先輩で私よりひとまわり程も年上だろうか。池の水系のいちばん末端の田に稲を付けている。私と同じで納屋からの帰りだろう、彼はにっこりして「今年は、良(よ)う水を入れてくれて、ありがとな」と私に言う。「いや、そんなことない、いつから(稲を)刈られるんですか」と私は答える。会話はそれだけだ。
抜きつづけた池の水は、この雨で少しは回復するだろう。池水を落とす年単位のひとつのサイクルが終わり、また新しく始まっているのだ。夏の日々、水のことになると、目の色をかえて争っていた百姓は、今は稲刈りと籾摺りのことで頭がいっぱいなんだろう。
それでいい。今年もなんとか米が取れた。私はY氏の言葉に、この夏の池守の疲れがふーっと抜けてゆくようなここちがした。

2010年10月7日木曜日

こんなことをしてみた

リアルはどうも生臭くていけない。洗練とは程遠い。NHKのドラマ・竜馬のリアリズムが息苦しかったのは、こんなことだったのだろうか。しかしあれは「絵空事ドラマ」なのであるから○○リアリズムを指向したのはNHKが意識した上での事だった。ひるがえって、料理はリアル以外にあり様がない、そこから離れながらもどうリアルを表現するか。

こうしてみれば、「料理ブログ」の洗練はたいしたものだ。

注、○の中はクとソです。



いいことを思いついた

ひとつの画面が、「絵」の論理に支配されてしまうとすれば、別の画面を呼び出してそこには、文字ばかりを入れればいいのだ。どうしてこんなカンタンなことを思いつかなかったんだろう。
アイシアッテルカイ

料理 つづき

「絵」の後に、日本文字を入れなければいいのだ。と見当をつけて、エイ!

Korede Osimai Desu