2011年12月29日木曜日

今年のこと

今年のこと

意図していた訳ではない。教養とは何の関係もない。古い文献を手に入れて読もうと考えた。ヒトラー「わが闘争」。ジェイムス・ジョイス「ユリシーズ」。それらが我が手元にある。埃にまみれたそんな本など若い時には目もくれなかった。(生意気にも読まなくても解ってらーと思っていた)

少しの過去と少しの未来が残されている今。
それらは、未来を照らすに必要と私は考えたのだろう。読み解くことができるか。そんなことは何の関係もない。そんな「切実」なのだ。


『我々はどこからきたか。我々は何者か。我々はどこに行くか』

2011年12月27日火曜日

申し上げにくいのですが

申し上げにくいのですが
とC社(キャノンの事だ)受付嬢は言った。プリンターの「エラーランプ」が七回点滅を繰り返すようになった、ウンとも言わない。「五回点滅」ならドリカムの『未来予想図Ⅱ』「アイシテルのサイン」だけど、これは七回点滅「メゲテマッテルのサイン」か。

これを印刷した直後にBJF890(キャノン)は力尽きた
顧客対応マニュアルにあるのだろう、受付嬢は「もうしわけありません」とも言ったように記憶している。彼女の言うには、2001年製造のこのキャノン製プリンターに「我が社は対応していません」。つまり、部品の供給はおろか、修理もしないということだった。

合理的判断とはこのようなことなんだろう、「直すより作った方が安上がり」だ。つまり、部品を管理し、修理するよりは新しく作った方がコストは安い。
ここまで、合理性を追求するのなら、企業は機能だけ販売したらどうなんだろう。つまり買う側も機能だけ買うことにする。プリンター本体は買わずプリント機能だけ買うということだ。こうすれば企業に故障を直す意思がなくなれば唯のゴミと化したプリンター本体は当然キャノンに引き取ってもらう。

こんなことを考えたのは、今の所有のあり方では、10年後には(5年後かもしれない)確実にゴミになるものを消費者は買わされることになると気付いたからだ。
耐久消費財を作る企業は、壊れない物を作ることは不可能なのだから、使わなくなるまで、修理することができる仕掛けを作る以外にないのだ。それを放棄した買いなさい、捨てなさいのキャノンに『エコです』『地球に優しい』などと言われたくない。いや、言わせてはいけない。

私は1953年製造の者だけれども、「もうその製品には対応していません」と言われるかもしれない。と、つれあいに言えば「欠陥品で返品不可じあー」と機嫌がいい。

2011年12月25日日曜日

2011クリスマスイブ

2011クリスマスイブ

この頃は、日付も怪しくなっている。昨日つれあいに、今日はクリスマスかと聞いたら、「イブイブ」だという。であれば、きょうは、クリスマスイブだろう。祇園祭で「ヨイヤマ・ヨイヨイヤマ」という数え方があるけれど、それに習ったものだろうか。キリスト教の本場?では、「イブイブ」なんていうのかしら?「イブイブ」という音は「ラブラブ」に近くて、世を挙げて発情を促しているみたいだな。禁欲な生活を片時だってしていない人々が「イブイブ」に「ラブラブ」か。と年寄りは重ね着の上に重ね着を着てなお寒いのである。
カラーインジェクトプリンターの不調をいじっているうちに、ブログのことを忘れていた。結論は、白黒印刷ができればいいじゃないか、変な色に印刷したとしても読めればいいじゃないか。ということに落ち着いた。なにしろインジェクトプリンターなる機械は「使っているうちに直った」みたいな機械なのだ。きわめて「アバウト」きわめて「デリケート」そんな機械を私は「お湯」で洗ったりしたんだもの、動いている事が奇跡に近い、まるで「キリスト」の復活のように。
それはそれとして、イブの今夜、つれあいはサッサと仕事に出かけて不在だ。イブにかこつけて、仲良くなろうとは互いに思ってもみないらしい。ずいぶん前に成人した、子供が「私はお母さんに似て、仕事をするのが好きみたい」と感想を述べたと聞いたが、考えてみれば、じゃあ、父親に似てどうなんだと気にかかる。
さて、世間はクリスマスでにぎやかである。日付の変わる頃、こちらもにぎやかに犬どもと散歩に出た。星がよく見える晴れわたった?空だ。遠くの雷が時折、空を明るく照らしている。雷鳴は聞こえない。冷たく吹き渡る風音のせいなのか、それとも、光は届いても、音は届かないそんな遠い距離のせいなのか、と「一人と犬ども」の散歩は思索的なのである。「オリオン」「北斗七星」「カシオペア」「シリウス」「スバル」知っている星座や星は両手の数より少ない。北の国の食い物「全部のせ丼」みたく今夜はそれら全てが一望である。家に近くなった時、「流れ星」が北から南に流れるのを見た。その時、宿題にしている、「遠野・物語・序文」の「物語」部分を書いてみようと考えた。「地震・津波・とりわけ原発事故」この年を忘れることなど出来はしないのだ。

2011年12月18日日曜日

玩物喪志の日々

玩物喪志

車のエンジンをいじっている。いじりながらもいまひとつ切実に欠ける。何故か?考えてみれば、エンジン以外の物でタイヤを回すことが出来れば、エンジンなど要らないのだ。いや、ドラえもんの「どこでもドア」があれば車も要らないのである。と心の片隅で考えているからなのだ。
パソコンについても同様のことが考えられるだろう。情報を伝えたり伝えられたり、蓄えたり、あまつさえ、はた迷惑にも自己表現をしたり。それをする手段が不安定で気まぐれなパソコンでなければならぬことはない。
こうしてみれば、我々は大なり小なり「玩物喪志(がんぶつそうし)」なのだ。

それはそれとして、車のエンジンオイルを替えた。オイルを替えた車は以前より調子が良くなるとは限らない。(特に最近の車は神経質だ、「おお気持ちいい」と昔の車は素直に調子の良くなったものだけれど。)結果は変わらず。それでもいい。壊さなかっただけでも。
ところが、次の日朝乗ってみると違っていた。昨日は10kmぐらいの試し乗りだったが、一夜置いてオイルが可動部分(ピストンとシリンダー・コンロッドのメタル・ベアリングの内部・4気筒だから16あるバルブのステム等々)になじんだせいだろう、エンジンの吹け上がりが違う、エンジンの動作が何事によらずスムーズになっている。
このことはたとえば、お神酒が回ってくれば、お口の滑らかになるようなものか。と擬人化してみたりしているのである。
さて今日は、パソコン先生に貰った。カラープリンター(2001年製造)がピンク色でしか印刷しない、どうしたものか。と相変わらずの「玩物喪志」の日々なのである。
県北(ほんにのうやの里)に片赤耳の車で野菜を貰いに上がる、雪花が散っていた。
K君熱烈歓迎。

2011年12月16日金曜日

清明上河図

清明上河図

清明上河図」が、来年この国にやってくる。と聞いて学生の頃のことを思い出した。
私は、工業高校(機械課)では劣等生だった。機械を分解したり、組んだりする事は好きでも、計算尺を使い、割ったり掛けたりして計算し、図面を書くのは苦手だった。いや、はっきり、しなかった。漫画のような筆使いの私の設計図を見た担当の先生は「嫌いなんじゃなー」と同情して点をくれた。
自分の才能に見切りをつけた訳ではないが、面接みたいなものだけで入学できる大学に入った。これが、「史学科」の日本史。今でも学籍番号は空で言える「722031」さんざん答案に記入したもの(これだけは書ける他は全滅でも)。講義に出てみるとチンプンカンプンで、その上、同じ科の者が普通に知っている事を決定的に「知らない」事に気づいた。これはどうも変だと高校の事務局に問い合わせてみると私が高校の時履修したのは「世界史」だった。知らないわけだ。今でも私は決定的に「ものを知らない」と胸を張って言えるのは、こんな経験があるからなんだろう。
話がずれている。元に戻して。その大学のたしか「美術史」の講義でこの「清明上河図」に出合った。先生のイメージは蘇るけれど名前が出てこない。仮にS先生としよう(坂本ではなかったか?なにしろ40年前のことだ)。先生は清明上河図のスライドを黒板に映して「いいねえー」「すばらしいねー」「好いいねー」と1シーン毎に感嘆して、この長い絵巻のような絵を右から左に順に辿った。この講義期間が三ヶ月だったか、半年だったか、一年だったか、それは思い出せない。私の思い出すことが出来るのは、学問は「好むことから・スキであることから」始まるのだ、それは学問専門者(学者)の使うところの論理以前にあるのだ。と思い知ったことだった。S先生はどうして居られるのだろうか。

2011年12月13日火曜日

お変わりありませんか

お変わりありませんか。

二年前に、中古で買った車がリコールです、と車屋さんから連絡があった。最近自力でドアミラーを替えた、あの片赤耳の車だ。
車屋に持ってゆくと、店の者が笑顔で「お変わりありませんか」と聞く。あれからの事か、「お袋は手術を受けたし、私も寄る年波には勝てなくて、あちこちにガタガ来ている。」と言いかけた時に気付いた。
「車のことなのか?」それなら、「大禍なく過ごしている」ということだろう。「調子はいいみたい」と答えれば、赤耳のドアミラーが少し赤らんだような気がした。

2011年12月11日日曜日

猫のこと つづき

ネコのこと つづき

11日夜半に目を醒ます。起きだして階下におりれば、足音に気づいたものか家のオス猫(オナガ)が外に出たい、と廊下で待ち構えている。
裏口を開けてやれば、月光がアスファルトを敷いた道をまぶしく照らしている。月蝕は終わったみたいだ。
「オナガ」は、こんな深夜に行くあてのあるらしい。うらやましいことだ、と送り出す。
考えてみれば、宇宙空間に浮遊している、「太陽」と「地球」と「月」が一直線に交わった今夜。月はもっとも満月の唯中なのであった(明るいはずだ)。
「地球」でのこともまた一瞬の夢にすぎないか。「オナガ」。
「うぐいすボール」みたいだが、月蝕を撮ってみた。手持ち300ミリの私はこのくらいにしか撮れない。シャッターは60分の1ぐらい。それでも、ずいぶん明るい。
下にO氏が送ってきた絵。中空に浮かぶ「球」であるところの月。

2011年12月10日土曜日

猫のこと

猫のこと

猫のことは、どこかに書いた。探してみると「十月十日深夜の独り言」という題で書いている。その続きです。
我が家のオス猫二匹を蹴散らすようにイジメていた、強面オス猫が来なくなった。やれやれだ。これで静かになると思ったことだ。勇敢に立ち向かい深手を負った奴も、「ヤメテ止メテ」と逃げ回っていた奴も、これで近所をのんびり散歩ができるに違いない。
ところがそうではなかった。強面君が来なくなると今度は、家の二匹が喧嘩を始めた。今日も、隣の屋根の上で「フォー・オウオウ・ワオー」と背中をツッパラかせてやりあっている。庭の犬も心配そうに見上げて吠えたりしている。放っておくと「ギャーー」という声もしてきた。
どうやら、共通の敵が居なくなると内輪モメが始まるのはこの世の摂理のようである。ネコを嗤うことはできない。省みれば政治の世界でも同じ事が起きているようではないか。いや、政治のゴタゴタを嗤うわけにもゆくまい、身近に目を向けてみれば「職場、地域社会、血縁の関係、」どれも同じ事が起こりがちだ。と考えた。
ネコのことは放っておいて、このメカニズムを封印する工夫はないものか。ひとつは、普遍のそのメカニズムが存在すると認識することだろう。あなたも私も免れることはできないのだと。もうひとつは、共通の敵(目標・課題)を見つけて互いの認識とすることだろう。言うまでもなくこれは、「状況」を多角的・重層的に考えるといういま少し高いレベルのヒト人類の能力が要求されるだろう。
とここまで考えたら、なんだか静かだ。ネコの諍いは収まったみたいだ。
この屋根でやってたんだが、どこに行ったものか

2011年12月8日木曜日

パソコン顛末 感想

パソコン顛末 感想

パソコンを使って何かをする、というよりも、パソコンそのものを相手にしている数日だ。
パソコンをいじってみて、この物は
・無限に近いコピー能力をもつ
・限りなく(何度でも)可能な再現性をもつ(くりかえしトライできる)
これが、特徴であるという感想を持った。
これは、一期一会の(同じ事は二度と無い)我々の生存様式とは全く異なるものなのだ。言葉を変えれば、我々の存在は、「唯一無二」であるし、その存在過程の再現性はない。
今回、思うがままにはならぬものの、パソコンを相手に、「どんな局面でもどこかに解決の糸口はある」とやってみたが何とかなった。
一方、「一期一会の生存様式」の方は、かれこれ数十年取り組んでいるが。これは「思うがままにならぬ」事はもちろんだが、「なんとかなる」の段階でもない。負け惜しみではないけれどこちらのほうが奥も深いし面白い。

話は変わるが
今日、長袖の下着を買った。行ったのは、昔からの衣類専門店だ、名前も「○○ゴフク」。店に入るやいなや店内にむかって、「ここにはシャツを置いとるかな」と言えば、私より年配の(ということは婆さんの)店員が対応してくれた。「こちらです」と案内されながら「チラッと見て(私の)サイズはどのくらいと思う」と聞けば「Mですかね」。下着コーナーの山ような商品を前に「丸首がいいですか。厚手と薄手、どちらになさいます」と聞かれる「丸首で厚手がええな」。ここまで、二分とかからない。支払いを済ませても五分。
つくづく、物を売るということは、「商品知識」が在るのと無いのとでは大違いだと思ったことだ。対応してくれた(婆さん)店員はおそらく何十年も服の知識を蓄えてきたに違いない、そうでなければこのような的確な対応はできまい。働く者を使い捨てにしたのでは、このようなベテラン店員は育たないのであると思ったことだ。
雇用の安定か不安定か。長い目で見て、どちらが得であるか、店員にとっても、買う側にとっても。そして社会にとっても。
胴長短脚を誇る私であるが、おそらくこのシャツは体に合うだろうとウキウキ思っている。
後日、このシャツを着た。丸首というものは窮屈なものだ。と思っていたら、前と後ろを逆に着ていることに気づく。「前」とか「後ろ」とかをプリントしているシャツはないものか。今度あの店員に聞いてみよう。

パソコン修理・失敗・顛末 つづき

さて、つづきを書いておこう。「電源」と「マザーボード」の「訃報」がパソコン先生から届いた。残るは「ハードディスク」の状態だ。こんなもの


にこうしてディスクを挿して(これは違うディスクだ、こうしたという見本)
みた。
今これを書いているパソコンに繋いでみると生きているみたいだ。さて、この中身を取り出して愚かなブログを続けてみようと考えた。
使いますものはWIN7に付いている「転送ツール」。
署名捺印の書類を前にして印を持ち、「ではここに」と自分の額に印を押すような真似をさんざん仕出かしつつも何とか転送したみたいだ。
このパソコンのどこの場所に転送されたか、それはこれから追々調べるしかなかろう。まあ、出てこないにしてもたいしたものは持っていなかった訳で、気楽といえば気楽なものではある。
たとえば、「鬱」になったりすれば、なんとか「元」に戻ろうと足掻くことは誰しもママある事だけれど、考えてみれば「元々」がたいした者ではなかったのであるから、「鬱と二人連れ」とぼちぼち行くしかないのと同じようなものだ。

2011年12月6日火曜日

パソコン修理・失敗・顛末

「とるものもとりあえず」。「引越し」したわけだが、こうして、「着の身着のまま」になったといっても、「人心地」の戻ってふりかえってみれば、元の所に置き去りにした荷物が気になる。

それはそれとして、燃やされた「マザーボード」と燃やした「電源ケース」を「パソコン先生」に見せてみた。先生は「カーナビ」よりも「興味津々」みたいで「どうしたん、これかな、」と焦げ臭いマザーボードを匂ったりしている。「犯人」の電源ケースを示せばもうドライバーを手にしている。電源ケースを開けて、基盤を剥き出しにした先生は「どの線を?どこに繋いだん?」だから~と、正直に教えてあげた。すると先生は「ほれ、やっぱりなー」と上機嫌だ。
それから後のご教授を要約すれば、「電線に色を付けているのは意味がある」(ニギヤカシかとおもっていた)「それぞれの色はそれぞれのグループに属している」(へー、デモのときの旗みたいなものか)「あんたの繋いだオレンジ色の線はピンクの線の集まりのところに挿してある」(そうだけど)「ここを見てみんさい」(老眼鏡をかけて見ると基盤に3Vと書いてある)「3ボルトの集まりはオレンジ線」(そうみたいだ)「ところが、あんたの挿したオレンジは12ボルトグループ(ピンク)に挿してありゃーせんか」(確かにそうしている。ここに違いないと12Vグループの空いた穴に挿した時、私は達成感にあふれていたのだが)先生は簡単な割り算をした後「四倍の電気を送ったんじゃから燃えるわなー」とますます上機嫌だ。「なにをするかわからん」これが先生の出した結論だった。
つくづく、私には「常識」というものが欠けている。いや、この期に及んで大きなことは言えないのだが、ヨーロッパの経済危機と同じで、無い財は払えない。無い知識は使いようが無い。つまり「無い袖は振れない」のである。
燃やした電源は更正の余地があるか、燃やされたマザーボードは治療の可能性があるか、パソコン先生に託して帰宅した。
帰途、私は上機嫌だった、何故か。「まだ使えるでー」と古い年式のインクジェットプリンターを先生から貰ったからだ。インターネットで「ドライバー」を探して動かしてみよう。「ヨッシャー」、と懲りていないのである。


2011年12月4日日曜日

パソコン・修理・我流 顛末

パソコンが壊れた。正確に言うと火を吹いた。いや白煙だけだったからボヤというべきか。

最近「点いたり消えたり」していた電源だが、直った(直した)と思っていたがまた症状が出始めた。ん~。と調べてみたら、電源ケースの中の配線が基盤から外れかけているらしい。ついに原因を突き止めたと思った。ケースには「開けたらダメ」と書いてあって丁寧に封印までしてあった。こんなのを見るとだめだー。開けて突きまわして、組みなおして電源を入れたとたん、冷却ファンが猛烈なスピードで回りだし、マザーボードがミシミシ音をたてたかと思うと「コンデンサ」から白い煙が吹きだして~~。
やっちまってしまったわけだ。そんなことで、これまでのもの(ハードディスクの中)が無事であるかどうかまだわからない。これは、別のパソコンで書いている。今まではXPだったけど、これはウィンドウズだ。(まだカーナビ自慢が残っている?)
それにしても妙にサバサバしているのはどうしてなのか。「落ち葉の舞い散る停車場は~」と過去から逃げることはホントは快感なのではないか。世間では、サバサバ顔の女どもがバスから降りてくるときは観光バスツアーの和気あいあいのおしまいの時。「悲しい女の吹き溜まり」などこの世のどこにもない?(これでは歌謡曲は成立しない)
この時代の根本を揺るがす変化が次第に顕在化してくる「今日この頃」だ。
話がヅレていっている、それよりも、この窮地?をどうするか。婦女子の運命の考察などそれから後のことにしたい。

2011年12月3日土曜日

パソコン修理術 我流

パソコンの電源が突然落ちた。再起動したら動き出したが、どうしたものか。買って三年になるが、散々いじって、元のままなのは箱だけだ。まだいけるだろう。医者みたいに「どうされました?」とケースのカバーを外したら途端に、また落ちる。こんな少しの揺れで?と、そこらにのたくっている配線を揺すると、点いたり切れたりする。そういえば電源を変えたときこんなことがあった。面倒だから点いた状態のままの角度で配線を固定したのだったと思い出した。電源が入っていた箱を探したら同じデザインの配線(予備?)があった。入れ替えてまた、配線を揺すってみると今度は落ちない。さてこれで修理したと言えるのだろうか。

ナビとの日々

ナビとの日々
このところ、車に乗る事が多い。別にひとつの事を除いて目的はない。ひとつの事とは何か。カーナビを自慢する事だ。このあいだは、カーナビの電源のためにシガーライターソケットを付けにいった部品屋の兄ちゃんにひとしきり、自慢したけど反応は今ひとつだった。先日は、叔母に見せたけど「友達(75歳過ぎばかり)はみんな付けとるよ」とこれも今ひとつ乗りが悪い。で、今日は、パソコン先生に見せたわけだ。「へー。オオ。」食いつきがすこぶる良い。「ワシもほしいなー」この言葉を求めてもう三日もさまよっていた訳だ。「何処で買うたん?なんぼしたん?」キタァ~~!。自慢はこうでなければならない。このナビは、シュミレーション機能があって、居ながらにして架空の地をさまよう事が出来る。先生はその画面を目を点にして見ていた。

さて、ここまでは昨日のことだ。今日のことを書けば、
カーナビの苦手とするのは、目的地が定まっていない時だ。確かに案内のしようがなかろう。しかし、今日も私はハンドルを持っている「自慢できる相手」という確かな目的を持って。カーナビは昨日の事に味を占めたものか、パソコン先生の所に案内している。「彼も我」も物忘れが特技となる歳とはいえ、「昨日の今日」は、少しマズイのじゃないかと。「ルート再探索中です」と言う彼女と二人で車を走らせているのである。

2011年11月30日水曜日

ナビゲーターに脱帽

ナビゲーターに脱帽
松任谷由実の「ナビゲーター」という歌(1977年)を繰り返し聴いていたら「カーナビゲーション」が欲しくなった。調べてみたらポータブルタイプなら値も張らない。手に入れて、連れて歩いている。「右です」「左です」「道なりです」となかなか働き者だ。そんな声を無視していつもの道を走っていると「ルート再探索中です」としおらしく考え直している。「ざまあみろ」だ、機械といえども女性の指示を無視するのは気持ちがいい。
ところが、今日の事だ、試しに言われる通りに道を走ってみた。すると、何時もよりずっと早く着く。どうやら、私は、三角形の二辺を辿るようなことをズットやってきたみたいだ。思い込みこそヒトの弱点と思い知った。「ナビゲーターに脱帽」。そんな彼女も電池が切れると居場所が解らなくなるらしい、そんな時はいつもの道を辿って連れて帰る。
考えてみればこの技術を使えば運転手なしの車も可能だろう。いやもうすでに、アフガニスタンやパキスタンで無人飛行機が人殺しを仕出かしている。まことに科学技術は諸刃の剣なのである。

2011.11.30の感想

新聞のテレビ欄は少ないスペースに情報を詰めている。これは業界用語・隠語に近い。しかしこの場合関係者は全読者なのである。そして、少ない言葉で意味を伝え、その上感銘を与えようとすることは、「詩」に近いのである。全国民は詩を理解する文学愛好家になるべく日々鍛えられているようだ。
たとえば今日のテレビ欄
「美少女ナマ足」「自動車トップが生出演」このナマと生の使い分け。
「十三の絶品」ジュウソウ=地名らしい。
「おもしろ珍メダル」キをチに替えただけでこの喚起力。
「モーターショー対世界戦略」区切りを間違えると違う世界に行ってしまう。
「スマホが走る」ん~しばらく目が泳いでいた。

2011年11月27日日曜日

境界

午前6時過ぎ、車のフロントグラスの水滴(霧の粒のようなそれ)をワイパーで拭うと水はたちまち氷になる。この不思議。我々の認識は「水」と「氷」この二つをある時点での変化として捕らえている、けれども事はそんなに簡単ではなさそうである。

こんなことは簡単に説明出来る。その声を聞きながら私は他の事を考えている。「時代区分」の事を。古代・中世・近世・近代・現代という時代区分のことを。ひとつひとつを卒業して次の世代に移行した。という認識を私は間違えていたと思う。今までの認識を棄てようと思う。

2011年11月23日水曜日

ふたたび原発について

ふたたび原発について
「安全神話」がくずれた後、このクニがどんな変化をしているか。興味深い記事を見つけたので紹介したい。
政府はこの期に及んでも「徹底した安全対策を行い、安全性を確認した原子力発電所は活用」(国家戦略会議 資料「『日本再生のための戦略にむけて』について」)などとやっているので、お話にならないけれども。
さて記事の題は「浜岡永久停止の『牧之原ショック』」。記事のキレはたいしたことないけれども、中身を要約すれば、地震と津波と原発事故リスクを避けて企業が移転をし始めている。地元自治体も税収減に慌てて対策をとってるが関係自治体相互の軋轢が生まれている。ということだろう。(軋轢を解消する為に国・県は知恵を出せというこの記事の結論は先ほど書いたクニの考え方からすれば空しい注文と言わざるを得ない)
安全神話の元で隠されていた矛盾が顕わになってきていると私は思った。言い換えれば、今までの矛盾は国・電力会社と住民との間にあったけれども、企業と自治体。自治体と自治体。との矛盾が現われてきているのである。もう少し抽象化すれば現代社会を席捲し支配している「資本」のなかに明らかな亀裂が生まれているのではないか。これは私の読み違いだろうか。記事を載せてみよう。
クリックすると拡大する

2011年11月22日火曜日

イッカ・ニカ(一荷・二荷)

イッカ・ニカ(一荷・二荷)
落語「壷算」を楽しんでいると、単位に「荷」が出てくる。「古いところを聞いていただきます」と始める事の多い落語であるが、この話も「明治・大正」頃のようすである。
身近でこの単位を使っている職種があるのをご存知だろうか。「汲み取り」「し尿処理」の業界である。

前にもどこかに書いたが、岡山市の汲み取り代金は高いと思う。他の市と比較したわけではないが、つましい生活を圧迫する額である。見方を変えれば、食うに困れば出るものも出ないわけで、汲み取り代金が生活を圧迫する事もなくなる。でもこれって「壷算」の論理にどこか似ている。
そこで、自ら汲み取ることにした。この計画が家の者にバレれば反対されることは火を見るよりも明らかであるから、秘密裏に事は運ばなければならない。使います物は、タンク・運搬車・汚泥ポンプ。これを購入する。もんだいは「何処へ」運ぶか。これは、柿の木の畑にした。幸い人家からは遠い。
さて決行日を何時にするか。
そんな事を考えていたら、その昔、詩人「田村隆一」が「水を飲み泥を排泄し」と書いていたことを思いだした。さて、観念ではない本物の「泥」を相手にするか。

T氏のこと

「大廻り・小廻り」のT
『環境ネットニュース』に書いてと頼まれた。引き受けたのはいいが、「書いちゃダメ」と言われれば俄然書く気になるのだけれど、「ここに書いて」と言われたら書きにくい事を発見した。それでもこうして書いているのは、どうしてもT氏の事を書いておきたかったからだ。
彼と私の共通している所は「自覚的?産廃被害者」であることだ、10年ほど前に彼の方から連絡があって彼を知ることになった。(その彼の行動力は今の彼を支えているだろう。)「産廃で私の人生(設計)はくるわされた」と彼が言っていると聞いて、疎遠になっていた今の彼に会ってみたくなった。(それは、否応無く、私のこの10年を見直すことになるだろう)
約束の時間に「大廻り・小廻り」山の彼を訪ねる。雑木に蔓の垂れた鬱蒼とした山道を軽トラのエンジンを吹かして登ってゆく。彼は使い込んだ剪定鋏を腰に付けて、迎えてくれた。
訪れた理由を説明すると彼は否定した。
彼の略歴と暮らしを記しておけば、県立農業大学校在学中に「大廻り・小廻り」山を見て「こんな美しいところはない」「ここでのんびり暮らしたい」と卒業後二十歳の時、ここに一町五反の土地を求め入植した。当時(30年前)ここ草ヶ部は葡萄の一大産地だった。ところが入植して一年目、公共事業で農業用の潅水タンク施設を山の中腹に作る時、道を広げ、ダンプカーが行き交う様にすると、たちまち山は残土捨て場、産廃処分場の食い荒らす所となった。以来30年。彼はここで暮らしている。
彼は、私の問いを否定して「いや、産廃で人生は豊かになった、Kさんともそのおかげで合えたし、あなたとも知り合えた」という。そうかもしれないが、「人生(設計)が変わった」のは確かだろう。
彼の主食は畑で出来る(米はできない)サツマイモとジャガイモ。采の野菜は自家製だ。他にキィーウィー・モモ・クリ・カキを作っている、市場に出すけどお金にはあまりならない。
必要の現金は賃仕事で稼いでいる。数年前ガソリンが高騰した時、車に乗るのを止めて今は自転車で移動している、電気代は月3百円。この夏は5百円かかったか?と言う。「ガス」は?使わない、薪で煮炊きする。近くには三軒しかないので「町内会長」をしている。とも言う。
私のところではイノシシが出始めている「獣害」はどう?と聞けば「カラスぐらい。そんなの来たらかなわん」という。
彼の畑には栗の木もある、その下で拾った
再会を約して、山を降りる時、見晴らしのあるカーブで下界を見下ろした。カメラで展望を撮る。驚いた事に、この西大寺の北、瀬戸町に接するこの山(標高200m)から、私の棲息する児島半島が見える。眼下には江戸から明治にかけて開発された田園が広く見える。直接には見えないが吉井川はすぐ近くを流れる。ここは国指定史跡「大廻り小廻り山城跡(おおめぐりこめぐりさんじょうあと)」であった。(七世紀に作られたと推定されている)
千年を遥かに越えてその昔、ヒトビトが暮らしを立てるために「恐怖の想像力」を駆使して建てた山城の跡である。わたしは「呆然」と考える。「この時代のロケットも戦車も戦闘機も核兵器も軍事同盟も、その同じ恐怖の想像力の産物であろう」と。「それらは、いづれ雑木の下に埋もれ、蔓覆うことになるだろう、それまで、我々は我々であり続けているであろうか」と。いや、こうも考えた、先祖伝来のこの「恐怖の想像力」は今こそ、災害に発揮すべきだろうと。「巨大地震・津波・原発事故」これらはすでに「想定」の領域に入った。その時「電力は食料は医療は守れるのか」。3.11で失った物を取り戻すには何十年かかるか解らないけれども、「恐怖の想像力」は今日からでも働かせることが出来るのであると。
聞くのを忘れたけど、独身のT氏にはこれと決めた相手はいるのだろうか。二人(或いは家族)で暮らせば彼の言うようにあんな「のんびりと、なお、美しい所はあるまい」
我々はその時代の経済の制約を受ける、その経済の制約のなかで我々は我々の生活を計画せざるを得ない。しかし、平地に暮らす我々に比して彼の選択幅は格段に広いのである。

ここまで、辛抱強く読まれた方は、「産廃のこと何処に行ったん」とお思いであろう。産廃のことは、彼、T氏を含めてこの「環境」紙上で論議すべき問題なのである。私も参加したいと考えている。

2011年11月15日火曜日

片赤耳の車

片赤耳の車に
数ヶ月前のことだ、つれあいの衝撃的バック運転事故で傷ついていたミラーを外した。付け替えたミラーは以下。


こんなになった。


当時青々としていた柿の木はすっかり葉を落とし、赤い実だけが空しく残っている。その赤に対抗すべく赤耳になったのだろうか?面構えはそんな風情だ。まだケンカ腰!?(中古部品を探したら合うミラーは赤しかなかった。色なんかどうでもいいという判断は私)
グレーの車体に赤耳の車を見かけたら近寄らない方がいいみたいです。それ相応の戦歴の者が操っている。

2011年11月12日土曜日

2011.11.12日の感想

「賛成か、反対か、」「参加するか、参加しないか、」その議論の切羽詰った結末に、起死回生の「ウラワザ」があった。まことに見事なこのクニの政治結末。「曖昧にする・曖昧な言葉で糊塗する」
以前、「信任は不信任・不信任は信任」をやらかしたこの党は、また同じ茶番を繰り返している。私はこの党が以後、何を言おうが彼らの「言葉」そのものを信じない。いや信じられない。
こう言い換えてもいい。他ならぬ「言葉でしか、言葉の表現力だけでしか」仕事のできない者(政治家)が言葉を粗末に扱うことは自裁に等しい。と。

さてマスコミだ。「ついに決断しました」と茶番批判は傍らに置き忘れている。もっぱら熱心にやっているのはTPP参加国の参加事情分析。甚だしいマスコミは「さあ次は消費税論議だ」ともう忘れかけている。彼らとっては何も起きない平和・平安は飯の食い上げだもんな~(そこで誰が苦しんでいるかは興味の外)。何もないように見える所にこそ分析し報道するものが埋もれていることを見抜く能力が彼らにはない野田。マスコミの「良心」など照れ隠しの表装紙にすぎない。

2011年11月10日木曜日

2011.11.10の感想

野田総理TPP会見ドタキャン。
なのだ、
どうしてか。
右肩上がりの経済社会の抱える矛盾は、なんとか先送りの内に霧散してしまうと誤魔化せた(自民・公明政権)
しかし、もう右肩上がりの経済社会は期待できない。
矛盾は衝突し決着することなしにはすまされない。
この構造。


さて、ここまで書いて

次に別の視点で
TPP参加賛成論者は、根本において、右肩上がりの経済社会を信じている。
TPP参加反対論者は、根本において、右肩上がり経済社会を信じていない。
この構造。


民主野田政権は根本において、右肩上がり経済社会を信じているのであろうか。

2011年11月9日水曜日

2011.11.9今日の一句

今日の一句
[一流の胃カメラの技術・そんなもの・このようなものにすぎない?・といささか寂しい・オリンパス・自らの病・明らかにできず・重体]

[家庭料理人・経歴のいささか長すぎたか・犬の飯碗・完食を見て・喜ぶ我は]


ん~。いささか「いささか」が多すぎる。

2011年11月8日火曜日

ツイッターのように140字で


百姓の先生「ラエ」氏を軽トラの隣に、先生の用事をすませる。話題は昔の事。共通の体験、共通記憶。これらがヒトの仲を取り持つ力は侮れない。と思う。歳90と歳60の男同士の仲を取り持つ50年の歴史の記憶、「直接は知らんけど、聞いた話では~」を加えれば、もっと過去まで。ヒトとは何だろう。


犬が庭で座っている。月の光に照らされて。いつからそうしていたのか。いつまでそうしているのか。命とは何か。めずらしく冷える夜だ。これは見たまま感じたままの記述である。このイメージを持て余している。もうすぐ日付が変わる。ひと眠りしよう、目覚めればサッパリと忘れているだろう。ヒトとは何か。

2011年11月7日月曜日

低空飛行・飛行

週刊新聞「民報」に寄ったら、これをみつけた。名前はまだない。

物の名は、どう付けようと、製作者の自由である(子供の名前がそうだろう)が、これをどう名付ければいいのか「低空飛行・飛行機高度測定原理・説明用模型」?おそらく世界にこれひとつしかあるまい。製作者の同意がなければ公開できないから「絵」は今はない。
このような奇妙な発想は誰にでも出来る事ではない。「あんたは変わっている」と製作者は、こと在るごとに私に言うが、そのコトバ「そっくりお返し」したいような一品である。
コトバで表せば、幅5センチ長さ50センチの板(薄い)の縦長方向に筋が引いてある、その筋の所々に(等間隔で?)鉛筆の太さほどの穴が開けてある、五つほどか、その穴に棒が刺さっている(穴が5ならば棒も5なのである)その棒を足にしてこの板と棒の物体は自立している。どうしてか?それは足(棒)が交互に開かれて机(下の面)に接しているからである。板を水平にすれば(ある条件で可能だ)それが飛行機飛行面(線)になるのである。一見オモチャのようでもある。
これは、米軍戦闘機がしばしばニホン国市民の頭上で行う「低空飛行」の高度測定のための工夫である。なぜ、このような工夫がなされるか?米軍は何処をどの位の高度で飛んだのかの事実も資料も公表しないためである。
それにしても、「絵」を手に入れたいものだ。自然光で(フラッシュなしで)、背景はぼかして、少し見下ろすようなアングルで。真横よりも少し縦方向から。これから、メールで頼んでみようかしら。
という訳で、製作者より送られた「絵」
この模型の絵を使い、原理を説明しようと思う。
低空飛行の米軍機は地面に水平に飛行する。目撃者の目線は青い棒である。目撃者の位置と目撃角度(仰角と方角)が複数集まれば(この場合は四名)それぞれの目線が面と交わった点が飛行ルート(線)である。そしてその線の高度も自ずと割り出せる。それを具体に表現したのがこの模型なのである。
この方法の優れているところは、位置と角度(仰角と方角)というヒトの主観に左右されることの少ない要素を使っているところだ。目撃数が増えれば増えるほど「精度」が上がることは言うまでもない。
自分のクニを守るために、アメリカ合衆国と軍事同盟(日米安保)を結ぶことについては、主権者(国民)それぞれ意見の分かれるところであろう。しかし、こと低空飛行(訓練)に関しては迷惑以外の何ものでもないのである。

2011年11月6日日曜日

2011.11.6の百閒

2011.11.6の百閒
どうも、気の向くところが定まらない。仔猫のジャレテいるようである。いい大人のする事ではない。とここまで書いて、そういえば、私は、良いオトナではないと気づいた。
この気ままが、気侭の対象が分散し塵となって消えてゆくものか、それとも思いもかけず収斂してゆくものか。私には解らない。
ここ数日、「内田百閒」を読んだ。そして、感心した。見慣れた絵の中に、思いもかけぬ筆使いを発見したみたいに。
「暗い横町の角を曲がって、いい加減な見当で歩いて行った。今まで、大通りで向かい風を受けていたのに、急に風の当たらない向きになったので、頸から顔がほてって来るように思われた。しかし、その所為(せい)ばかりでもないらしい。軒灯に照らされている表札を見ながら行くと、その家の番地が、だんだん近くなっている。道端に寝ていた犬が寝返りした拍子に、私はびっくりして、飛び上がった。」百鬼園随筆(福武文庫)所収「地獄の門」書き出し。
百閒といえば借金と汽車の旅。これは、高利貸しを初めて訪ねる場面。不安な気持ちが、犬の寝返りを使って表現されている。上手いな~と思う。犬はいなかったんじゃないかと私は思う、実際の犬が寝返りをしたりするのは、日溜りで暖められた背中が痒かったりしてあをむけでゴリゴリするときぐらいであるから。百閒先生の「してやったり」の顔が浮かぶ。
彼の書いたものは、なんの為にもならない。新たな知見も無ければ、人生の教訓もない。あるのは、ウルトラD難度の超絶技巧だけなのである。彼は、生家の酒造所が米を磨いて最後は水のような酒を造ったように、コトバを駆使して純度の高い「水」を作ろうとしたのであろう。誰しも、水ばかり飲んでいては、生きては行けないが、時には無性にうまい水を飲みたくなるのだ。

2011年11月4日金曜日

我がパソコンの今

これを書いているパソコンを強制静音にしている。冷やす為にチップの上にフィン(温水便座の部品)を付けフィンにクリップをまぶれ付かせた。以下絵。壮大な実験が始まっている。

2011/11/4朝

2011114日朝
秋にはよくある事だ。一級河川「旭川」「吉井川」の河口に位置するこの辺りでは早朝から濃い霧につつまれた。たちこめた霧に出勤の車はライトを点けて徐行している。河口を行き交う船々は霧に紛れて見えない。ただ盛んに鳴らす汽笛が「ここにおるよ」と呼び交わしている。犬の遠吠えのようでもあり、最近トンと流行らぬクラクションのようでもある。晴れた朝には気にもとめぬ船の往来なのであるが。
ブログの孤独に寄せて、今日の一句「霧の中に我は一人、思えども、汽笛鳴らして他者確かめる朝」ん~。いつもの字余り。

2011年11月2日水曜日

遠野・物語・序文 1

「遠野」「物語」「序文」
中秋の名月にちなんで九月十三日に、子規先生の我がまま気ままな文章、そのくせ見事な身勝手を読んだ。(「飯待つ間」の月)そうしたら、これまた大先生柳田国男「遠野物語」序文を思い出した。これがまたおもしろい。さて、と書いて。
もう一時間も『遠野物語』を探している。
3月(3.11)の時、津波の項目を読んだ記憶があるから。それから何処へ置いたか。
子規・漱石の明治のおおらか、風通しのいいユーモア。それがこの本の「序文」にもあった。
見つけた。意外に近いところ(枕の横)にあった。少し書き写そう。「初版序文」の書き出し部分「この話しはすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分をりをり訪ね来たり、この話しをせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。(略)願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広のみ」

文語で読みにくいけど、1910年(明治43)に書かれた文章としてはこれぐらいが平均だろうか。1904年(明治37年)漱石によって書かれた「吾輩は猫である」が斬新・異例なのだ。有名な「平地人を戦慄~」のフレーズがここにあることを書き写していて見つけた。ちなみに「陳勝呉広」とは「きっかけ・さきがけ」という意だそうである。柳田氏この時三十五歳、若者らしい率直な語り始めが好ましい。
さて長居は無用だ。この序文の肝。
「思うにこの類の書物は少なくも現代の流行にあらず。いかに印刷が容易なればとて、こんな本を出版し自己の狭隘なる趣味をもちて他人に強ひんとするは、無作法の仕業なりといふ人あらん。されどあへて答ふ。かかる話を聞きかかる処を見て来て後、これを人にかたりたがらざる者はたしてありや。そのやうな沈黙にしてかつ慎み深き人は、少なくも自分の友人の中にはあることなし。」
そうなんだなー。書いちゃあいけん。出しちゃーだめ。と言われると余計にしたくなる。ガマンなんか出来ない。文語のわりには読みやすいのは彼の文才による。柳田民俗学を支えているのは科学の方法、統計の駆使、厳密な論理構成ではなくこの文才に負うところがあると私は密かに思っている。彼は後年民俗学の大家になる。なったのちの悠々とした語り口は私には面白くない。
1935年(昭和10年)の再版覚え書きには、初版は、佐々木氏など関係の者に渡した後、「その他三百ばかりも、ほとんど皆親族と知音とに頒けてしまった。全くの道楽仕事で、最初から市場にお目見えをしょうとはしなかったのである。」と書いている。350部ほどしか刷らなかったらしい。(知音は知恩ではなかろうか)
商売にならない。市場が相手にしてくれない。儲からない。ブログの読者がいない。そんな悩みを持つ者には、この一連の序文は多いに励みになるのである。
これで、「遠野」「序文」はすませた。あとは「物語」。本文の中身を材料にして私見を述べたい。

2011年10月29日土曜日

2011.10.29極私的見聞

2011/10/29 極私的見聞
昼過ぎ、小腹が空いて弁当屋に寄った。「ほかほか」だ。店前のガラスに「求人」の張り紙がしてある。「アルバイト募集・主婦・高校生・フリーター」時間帯は書いてあるが、給与は書いていない。愛好する「海苔弁」の支払いをする時、「時給」を書いていないのは何故と聞いたら、途端に対応の機嫌が悪くなった。(こちらも、ペットボトルの茶を「ドリンク」と表現された途端に「ム」としていたのであるが。)「時間帯によって金額が違うので(書いていない)」というのが、不機嫌な答えだった。そのくらいのこと書けぬことはなかろうとは思う。しかし私の発見は求人に「フリーター」の文字を見たことだった。



私のような年齢の者は求人に「フリーター」と見ると違和感を覚えるけれど。街の雑踏の中に、なにげにそれは掲示してあった。
いずれにせよ、例外の存在ではなく「フリーター」と呼ぶしかない階層が大量に生み出されつつあるのだ。その階層はこれからのこのクニを背負って立つ世代でもあるだろう。
何事もないような、毎日の街の風景だけれども、その底では重大な変化、地すべり的変化が起こっているのではなかろうか。

雑感 4

パソコンの動作音がうるさい。この道具は故障すること(突然止まること)が知られている。いや、そうだからこそ「オモシロイ」という変態が多数存在する。バックアップをとることにした。それをしながらこれを書いている。そんなの宥されるのと思いながら。
夜明け前は気温が一日の内で一番低くなる。手足かじかむ季節になった。このあいだからカバーを外して裸にしている。パソコンの発熱で暖を取ることを発見した。マザーボド=ギガバイト「GA-G41M-ES2L」のintelG41は摘めば丁度指先を暖めるにつごうのいい温度だし。ハードディスク
HDS721050CLA362(500GA)」はてのひらをあぶるのに丁度いい形と温度だ、測れば35℃。発熱パソコン。冬期限定版だ。
パソコンの動作音。ガサガサ・ゴトゴト・ゴッゴッ・カタカタが気になるのは、机周りのエアコン・扇風機の騒音源が無くなったからだろうと思い当たった。夏は騒がしい季節なのだな~。蝉に聞いたところ周りが騒がしいとつい大きな声で鳴いてしまうのだと言う。ヒトの世の「広告看板」も同じではないのかと釘を刺された。
パソコンがうるさいので、ケースに付いているファンを止めた。すっかり静かになったけれど、今度は排熱不足で壊れるのではと心配になる。壊れれば「すっかり静かに」なるわけだ。その前に急いで書けることを書いておこうか、永遠なんかコトバの上でだけのことだから。
すっかり静かモードのパソコンであるが、ハードディスクに仕事を与えれば「ガサガサ・ゴソゴソ」仕事をコナしている。ディスクをSSDに変えると動作音が消えるそうである。しかし、こんな「ケナゲ」もレトロでよろしい。今日の一句「ハナ紙も・塵も積もれば・百億円・ティシューの箱を見て・この会社なの」

雑感 3

仔猫が三匹家にいる。それを見ての感想
仔猫は「カワイイ」。それはどうしてか。咬んでも、引っ掻いてもたいした被害がない。それもあるだろう、しかし、そういう感情が見るこちらに喚起されるのはそればかりではないだろう。私はひとことで言うならば「何も持っていない」ということではなかろうかと考える。ヒトは、往々にして、「~だ」でくくられる。弁護士だ。医者だ。議員だ。社長だ。公務員だ。その自意識はしばしば、我々に「それなりの対応を求める」この厄介さは、かなりのものだ。それなしに、そこにあるだけのもの。「おいらは誰・ここは何処」彼らの持ち合わせている物といえば、「用心深く、慎重で、なお大胆である」命の基本それだけと考えた。

家に上がろうとしたら、ちょうど仔猫が、廊下を向こうから走って来ているところだった。急ブレーキ、足を滑らせながら停止、Uターン、再び足を空転させて加速して走り去る。他はどうか知らないが、運動性能だけは優れているみたいだ。ヘルメットをあみだに被った暴走バイクの兄ちゃんみたいだと思う。

雑感 2

新聞を読んで。今日の一句。「年金開始年齢引き上げ」の記事を読んだ。冷静に、逃げ水の如くに遠ざかる年金をみて詠める。「ルールならばと・参加せしも・胴元ならばと法を変え・カエルの面の・ションベンか」ん~、つぎ。「ヒトの命は限りありとどく頃には遠のく年金」「あの方はどうして暮らしを立てていると問えば年金暮らしなりとそれも聞かれぬ世になりケルカモ」だんだん壊れてきた。いや、始から壊れているか。続けて「年金の話題も絶えて、同窓は病の事のみ語る、幻を見てきたか我等は」やや置いて今日の決定版「我は敗戦の国の兵なりと年金受け取りを断りし叔父あり 彼の思いはこの無惨な山河で在りしか」


産業廃棄物処理施設反対(見よこの日本語の造語能力)の集会に行った。講師(弁護士)の「現行法の厳格に厳密な適応を求めれば、処理施設の建設も運転も不可能であること。」その論理を目から鱗の落ちる想いで聞く。
その上で私は、住民・行政は何故簡単に産廃を受け入れてしまうのかその理由を考えた。
私の得た仮説はこうだ。今日聞いた法の論理は近代産業社会の作り上げた法の体系の論理メカニズムである。ところが往々にして産廃施設はそれ以前の(産業社会以前の)農耕社会の法の論理が支配する地域に作られようとする(つまりそこは田舎だ)近代産業社会法の免疫のないところに感染症の如く産廃施設ははびこり、地域社会は忽ち喰い散らかされるこの構造。
伝統的社会構造に基づく法。近代産業社会に基づく法。このふたつの法体系の違いを意識化しない限り、新たな地平も、これまでの教訓も得られぬのではなかろうか。

雑感 1

専門化すれば略語が生まれる事は承知の助だけれども、「SNS」という略語に意味がわからないでいた。「ソーシャル・ネットワーク・サービス」の略だって。つまり「ツイッター」とか「フェイスブック」とか「ブログ」とかがこれに当てはまる。それならわかる。はまっているもの迷惑がられながら。
さて、「SNS」何をしているか。ひとつはニュースの伝達。「こんな事が在った。こんな事があるよ(未来)。」もうひとつは、その事などをどう考えたか。「私はこう考える。私もこう考える。~だけど私はこう考える。」それから忘れてならぬもうひとつは。安否確認。「ドッコイ生きているよ。あんたも生きているか」
そんなわけで、「生きてるよ。」と雑感を載せてみよう。

「合理的」という言葉を書くたびに、違和感を覚えてきた。やっとその理由がわかった。2011.10.6毎日新聞一面記事より抜粋、「放射性物質の汚染が広がる現段階では、年1㍉シーベルトをめざすと合理的な対応が取れない可能性があるため」とある。つまり、合理的とは、「理にかなった」という意とは違って、「現状追認」の意もあるのだった。

昼寝をして、起きてみれば、日差しと風とが洗濯に丁度いい。洗濯を干して風になびくシャツなどを眺めおるほどに、「風誘う、洗濯日和、主夫の喜び」と指を折っていると、メスの遊びネコが帰宅した。空の器をみて「フエー」と催促する。キャツトを盛ってやれば、足元に来て、まだ見上げている。牛乳だ。句のつづきに「ネコの帰りて、ミルクをせがむ」んー。次に期待しよう。草刈機でも振りに行くか。
燃料タンクが空になったのを潮時に草刈をやめた。エンジンを響かせて草を刈りかけると、これから刃を入れる草叢に「雉」が逃げ込むのが見えた。今日なんとか喰うものがあれば、雉の暮らしを脅かすこともあるまい。とすべてを刈り倒す事はやめたのだ。おお、センチメンタルと笑わば笑え私はこうして生きている。遊びネコに邪魔されたが、新たな一句を考えた「イビキ掻き・イビキを掻かれ・秋の夜長に・ふたりかも寝ん」築三十年、いや婚三十年を迎えれば、枕を高くして眠るつれあいを見て、こいつが安眠できるのは自分のお陰だと互いに思うのである。しかし、考えてみれば、これは寝首を掻くにも丁度いい距離でもある。

2011年10月20日木曜日

2011.10.19旭川の土手道で

今日昼過ぎのこと、旭川沿いの土手道を軽トラで走っていると、路肩にバイクが横倒しになっていて、車体の腹のあたりでライダーがうずくまっている。転倒して動けぬようになっているものか。と、バックギアに変えて引き返した。車を降りて近づいてみれば、バイクを修理している最中だった。見ればエンジンの側面のカバーをすっかり外している。オイルに浸かった部品が内臓のように露出している「どうしたん」と聞けば「オイルがポタポタ漏れるから分解してシールを直している」とのこと、ナンバープレートを見れば見慣れぬナンバーだ。「ですけんね」の口ぶりからすれば九州の者らしい。バイク同様、彼の服も靴も顔も頭も油と埃にまみれて、爽やかとはいい難い。
バイクは嫌いじゃない、おまけに分解中、邪魔だとは知りつつ、「これ、何㏄?」「125」「どこの」「スズキ、エンジンは載せ変えた」かなり出来る者と見た。だいたい、バイクは自転車と違い横倒しにすればガソリンが漏れたり、オイルが漏れたりする、それを知ってガソリンタンクは外してある(だからメーカーが解らなかった)。手練とお見受けした。
聞けば「北陸を回って帰る所だ」という、帰途、岡山のここでトラブルとすれば、四国に渡ってそれから九州への途上であろうか。「一人で直せる?」と聞けば、「後は組むだけだから」と言う。
世の中、一人でなんとかやっている者は多い。時には他者の手助けも要る事もあるだろう。しかし、お節介はかえって迷惑なこともある。「いつでも手助けできるで」と近くで見守る事が私に出来る事だなと考えた。
「北陸」か~。旅に出たくなった。

2011年10月10日月曜日

十月十日深夜の独り言

深夜、目を醒まし、風呂に入る。サッパリしたところで、ウイスキーを舐めている。思うことは多いが、とりたてて書き付ける程のことはない。耳を澄ませば虫の音が聞こえて静かだ。
子のまだ手元に居る時、「深く安心して眠らせる・しっかり食わせる」親はそれだけしてやれればよし。と育てていた。その昔親の膝元でゴロゴロしていたあれらは、私の棲息範囲を逃れてどうしているのかしら。子育てにおけるそのふたつの原則がこの数年、他ならぬ、私自身の暮らしから失われている事に驚いている。
階下にお代わりを注ぎに降りれば、「フェフェ」と窓の外からネコが「イレテクデェー」と鳴いている。開けてやれば、さきほど風呂上りに外に出したばかりのオス猫だ。10分も外に居たか。入れて嫌がるのを抱き上げて、ヤツの頭を顎の下で押さえるようにして抱いてみると、冷たい外気に晒された毛の中からほんのり暖かさが伝わって来た。「コイツはこんなだから、傷ひとつしていない」と思う。それにひきかえ、日に一度帰るかどうかの、もう一匹の「アレは傷だらけだ」と思う。男子の暮らしそれぞれだ。それでいい。
階下に降りて傷なしの絵でも撮ろうか。

2011年10月2日日曜日

深夜の稲荷ずし

金曜日の夜半
『金曜日の夜半
コップの底の氷の塊に
ウイスキーを注ぎこんで
ウイスキーを溶かしながら
酔っ払っている と
無性にいなり寿司が食いたくなる
そうだ、食いたいと思うことは自由だと思う
食えるか食えないかそれはわからない と
付け加える

食いたいときに食いたいのだ
土曜日の朝にはいなり寿司のことは忘れているだろう
(透明なコップに指つっこんで濡れた氷と渇いたウイスキーをかきまぜた)』

こんなことを書き付けるぐらいなら飲むのを早々に切り上げて作った方が早い。(もっとも、貧しくて食材が買えないのか、それとも作る技術がないのか。)
まな板に揚げをのせて
三角に切るやり方もあるが今回は四角でゆく
あとで袋状になってもらわなければいけないので
ここで開いておく、手でも出来るがやはり、包丁を入れて開く方がエレガント
洗練されたやり方だろう、イヤなら手で開けばいい
揚げの脂抜き、5分ほど煮た。ついでに半熟卵も作ろう。
砂糖、醤油で煮る。この後、落とし蓋をした。
飯の炊きあがる前にすし酢(酢・砂糖・塩)を用意する
ざっくり混ぜて
少し冷まして、作り置きのキンピラゴボウとゴマを載せて
混ぜた。揚げはどうした

こうして裏返して包み易いようにしておいて。
皿も用意して
できあがり。
1974年。ずいぶん昔の私に「ほらこれでも喰え」と渡してやろう。

2011年9月27日火曜日

台風冠水顚末 4

台風冠水顚末 4
K氏は戸数、二百程の我が村の「散髪屋さん」だった。生きておられたなら歳九十になられる。ちょうど私のこれも亡きオヤジと同い年だ。さて、散発でもするか。と思い立った村人はたいてい「波戸」の先で竿を持っている彼を探す事から始める事になる。
波戸の先から北を臨む、小豆島行きの定期便(フェリー)が見える、船の向こう側、対岸は西大寺。

すぐに見つかる、おおかたそこにいるのだから。「頼めるかな」「今じゃねえとおえんか」「・・?」「釣れだしたところじゃ、あんたも竿を持ってこられえ、エサはあるで」こうして二人で竿を上げ下げする事になる。私もまた、釣りの道に引きずり込まれた一人だった。今は止めたが、道具を買い込んでチヌ釣りに遠征していた時期もある。K氏を放っておいて?仕方ない彼には散髪屋の「業務」があったのだもの。

こんなことを思い出したのも「業務」とは何だろうと考えたからだ。
先だっての台風十二号襲来時、我が岡山の市長、高谷氏は「避難指示」を出したその足で、自宅近くのジムで日課の健康管理にいそしんでいたという。彼にとっては、「避難指示」など日課の健康管理業務?の消化には何の影響もたらさなかった。さすがに気が咎めたのか「その後の業務に備えてリフレッシュしておきたかった」みたいなコメントを言ったとか言わなかったとか。市長、「その時はもう始まっていたのではありませんか」。
市長も市長なら、市も市だ「(市長は)連絡が取れるところにいた、危機管理上問題はなかった」だって。プチ官僚のいいそうな台詞だ。彼らのいう「危機管理」体制とはこんな図式か。いくら歩いても前に進まぬ機械の上にいくぶん息を弾ませながら市長はいる。手に持った携帯電話に「おう、そんなら避難指示を出しとけ」と言っている。

2011年9月20日火曜日

2011.9.19の日記

2011.9.19の日記
風呂から上がったところだ。風呂の前にテレビニュースをチェックしていた。明治公園の反原発集会。これまでマスコミは意識的にこれらの集会を無視してきた。どうやら今回は報道したみたいだ。数万規模のヒトの群れは「反原発」は既に「ファッション」になった事を意味しているだろう。数万の露頭の下に隠れている数百万のヒトビトの意向(トレンド)。良くも悪くも規模の変化は質の変化をもたらすことになる。それは、既に記したように「好いも悪いもなく」なのだ。
雑誌「ホトトギス」に載せた、子規のヒトを食ったような随筆「句合の月」。「遠野物語」柳田国男の序文のおふざけ。それは何処から来るのか。と考えているが。ひとつは数だろう。雑誌「ほととぎす」300。「遠野物語」350(このうち200は柳田が買い取った)。これが発行部数。これは読者の顔が見える数だろう。テレやおふざけもしてみたくなる。もうひとつは~。これから考えてブログに書いてみよう。

向田邦子「眠る盃」を読んだ。読みつつ心地よいのは何故かと考えた。そしてそれは、彼女がオトコを立てているからだと気付いた。オトコに対する目線が優しい。「偏食・好色・内弁慶・小心・テレ屋・甘ったれ・新しもの好き・体裁屋・嘘つき・凝り性・怠け者・女房自慢・癇癪持ち・自信過剰・健忘症・医者嫌い・風呂嫌い・尊大・気まぐれ・オッチョコチョイ」そんなオトコに「惚れているの」と書かれれば気分はいい。誰でもどれかに当てはまるだろう。もっとも、これはオス猫の事「マハシャイ・マミオ殿」の一節だけれども。一方、オンナに対する評価は辛い。彼女の名作「かわうそ」(思い出トランプ所収)など読めば一目瞭然だろう。ここでわが意を得たりとやに下がっているとオトコは間違える。彼女は「好かぬオトコは」無視して書かないだけなのだから。彼女の気持ちを忖度すれば、女の愚かさは「かわうそ」で掬えるけれども、男の「愚か」は救いようが無い。

一昨日のことだ。病院の救急外来でのこと。
診察室から出てきた彼女は「納得できかねる」ようすだ。昼寝から起きてみたら左腕がしびれていた。ついに「脳梗塞が来た」と駆けつけたのに。医者は左を下にして寝ていたからという。「私は左を下に寝る習慣は無い」「眠っていればどちらを下にしているか解らないもんだ」そんな医者とのやり取りもあったらしい。
これは大変、と呼びつけた甥っ子(これは私)も、医者の説に妙に感心している。「ほら、足も腫れているのに」「それも言うてみたん」「みたよー。普通の日に来てくれだって!」そうだ救急外来だったんだココは。彼女の言うには、来月の「健康診断」で痺れの件を確かめてみるとのことだ、江戸の仇を長崎で討つか。


川崎青年会議所創立60周年記念講演で小泉元首相「原発依存度、下げるべきだ」って。この主催者なに考えているんだろう。彼に聞くべき事柄。彼が喋るべき話題は、イラクにあるはずの「大量破壊兵器」が何故無かったのか、何故無いものをあると思ったのか。につきるだろう。それ以外に聞きたい事はない。いや、彼が誠意ある政治家であるならば、それを語って当然だろう。話がアッチムイテホイなのである。世襲で顰蹙(ひんしゅく)を買ったあの姿が彼の本質だった。

2011年9月13日火曜日

「飯待つ間」の月

正岡子規。「子規」と読むだけで、あるイメージがそれぞれの頭に湧くほど有名だ、「原発」と読めば今では一定のイメージの湧くように。彼が負けず嫌いの競い好きで、そのうえ説教大好きで、ヘキヘキするほどの強情持ちで、なお優れた随筆を残したということは余り知られていないのではないか。
私の認識が間違っていればこんなこと書く事は無駄なことなのだけれど。

『飯待つ間』に「句合の月」というのがある。「句合(くあわせ)」という俳句の出来を競う会のために彼が「句」の想(題は月)を練る。その過程の一部始終を書いたものだ。一読して、こんなに自由に書いてもいいんだ。こんなに奔放に、にも書けるんだと感心して忘れることなくいた。明治31年というから1898年、今からざっと110年前に書かれた文章だけれど、古びることなく益々新しい。
「先ず最初に胸に浮かんだ趣向は」「こういう趣を考えたが、時間が長過ぎて句にならぬ。そこで」「とやってみた」「とんでもない句だから、それを見捨てて、ふたたび」というような調子でとめどなく彼は考えを巡らせる。彼についてゆけば、森の小道に誘われ、大河の辺に連れてゆかれ、小舟に乗せられ、見れば傍らに酒徳利があったりする。彼は水滸伝の薀蓄を始めるけれど、真面目に聞くことはない、どうせまた場面が変わるのだから、その後は「イギリスの埠頭場へ持って」ゆかれる。そこで、夫婦の別れのシーンにつき合わされ、『「桟橋に別れを惜しむ夫婦かな」とやったが、月がなかった。』と、ウッカリ間違いにまで付き合わされるはめになる。最後に先生「こんなに長く考えたことはなかった。」「これがよほど修行になるような心持」「此後もこういうように考えて見たいと思う。」とご満悦のようすで、あくまで自分勝手なのである。
世の中は広いようで、この子規の文章を好む者もいるらしい。ここに全文が載っていた
子規に触発され、110年後に書いた私の句を載せてみよう。編集権は私にある。文句があるならポチットすればいい。
「夜半に目が醒めゴソゴソ起き出す。秋なのでか、ゴキブリがやたら目につく。「不殺生」と戒められているが、ゴキにはこの箍(たが)が外れてスリッパを振るったところだ。今日の一句『名月屋団子供えてゴキと見る月』」
壊れてきている、風呂にでも入るか。

2011年9月11日日曜日

肝を煮た

 とり肝のこと
その昔、奈良の「蔵」という居酒屋でこれを覚えた。作っていたのだ。学生だった。アルバイトだった。店は母親とふたりの娘それから一人の板前(彼は寿司を供すカウンターにいた)で切り盛りしていて、それにアルバイトが数名。1970年代半ばのことだ。洗い場担当だった近くの女子大生、彼女の洗剤で赤く荒れた手を思い出した。それにしても、(私のことだ)あんな勤務態度でよく首にならなかったものだ。いや、首になったのかもしれないよく憶えていない。店の酒に手を付けて飲んでいたから。
とり肝のことに話を戻すと、「とり肝一丁ね」と表から声が懸かると裏の厨房では「よっしゃ」と生の肝を煮始めるのだった。煮汁は砂糖と醤油で作っていた、煮立てれば泡の出るほど濃いやつだ。あまり濃すぎると燗冷しで割った。煮汁は使いまわしだから秘伝のタレのようにいい味だったのではないだろうか。五分ほどか、芯に火が通った頃、汁からあげて供した。タップリの山椒の粉を振ったようにも思うが、あるいは好みで客が振ったのかも知れない。そんな気楽な店でもあった。
さて、作ってみようか。肝嫌いは案外いてはるから、ここはクソ・リアリズムでやらしてもらいます。イヤミ?いやこの常備采は血の気の薄い「おふくろ」のためなのだ。私の酒の肴にもなる。常備采だから、居酒屋よりも火はしっかり通すのが鉄則だ。

2011年9月8日木曜日

ネズミデのこと つづき

石付(イシズキ)を掃除して、割ってみた。全く白い内部。

ダシを取ろう。その間に一度茹でこぼして使うと聞いていたからそうしておく。

出し汁の中に茹でこぼして取り出した茸をいれた。煮ればまだ灰汁(あく)は出てくる、灰汁も味の内なのだ、神経質に取る事は無い。


醤油で適当に味付けをして、解きタマゴを用意して、クラッと来たら中にサッと浮かせた。

ついでに、残っていたトーフも入れた。


家庭料理人としては、プロの料理人は楽だなと生意気にも思うことがある。向こうは腹を空かせて、「金まで出しているんだ、サアサア今すぐ持って来て頂戴」と思い設けて待っている前に「おまちどうさま」と料理を置ける楽さがある。こちらは、何時喰うか解らぬ者を相手に、冷めるかも知れぬ、暖め直しもできる物を作る工夫がいる。と。