2011年6月30日木曜日

みたび原発事故のこと

みたび原発事故のこと

私は、モスラ・ゴジラ・アトムで育った世代である。これに関して思い出すのは夏休みの絵日記のことである。子供なりにテーマに悩んだあげく、黒い絵の具でもって白い画用紙を塗りつぶすことにした。そこからは少し工夫を施した、真ん中あたりは丸く白く塗り残しておいて「モスラのたまご」と題して提出した。「栴檀(センダン)は双葉より芳(カンバ)し」というが、こうしてみれば、私の場合「双葉からええかげん」なのである。
それはそれとして反省しておいて。今になって、この怪獣やヒーローたちどれも原子力がらみだと気がついた。「我々の生活を一変させる革命的エネルギー」として、かたや「制御不能なやっかいなしろもの」として、私たちの社会は最初から原子力を認識していたのである。(たとえそれがボンヤリとした、意識下においてであったとしても。)
言い換えれば、我々は原発事故福島3.11を「想定していたのだ」。(やっかいものの成れの果てとして)
ここから導き出される教訓があるとすれば、現代の我々の持つ「良きイメージ」や「意識下に隠れている不安」はやがて否定されたり具現化させられたりするだろう。このことであろう。
さて、我々の先人がモスラやゴジラやアトムを創造したように我々も「この時代なりの創造」を試みている。では現代の産み出しつつある怪獣やヒーローは未来の何を指し示しているか。
それは、残念ながら私には解らない。「モスラのたまご」しか考え付かなかった私にはこの仕事は無理みたいなのである。
私に言えることがあるとするならば、それぞれが「この時代なりの創造」を目いっぱい試みてゆく他ないだろうということである。

2011年6月28日火曜日

真夏日と電力

真夏日と電力

今これを書いている時刻は、午後3時、気温は35℃。暑い。朝っぱらからガンガンにクーラーをかけて引きこもっている。そうすると大抵ろくな事は考えない。
「今年の夏は電力不足と聞いているけど、こんなにクーラーをぶん回しにして大丈夫なんだろうか?小なりといえどガマンすべき時ではないのか」小口電力消費者は考えたのである。
そう、この小者の考える事は、不思議とすぐに天下国家に及ぶのである。


パソコンの所ににじり寄って、「中国電力」を呼び出した。でてきた「ホームページ」をあれこれ見回したが、今日の供給電力量、使用電力量の欄は見当たらないみたいだ。そんなこたぁなかろう。


そこで、086-222-6731中国電力岡山支社に電話を入れて聞いてみた。優しい声の受付嬢が取り次いでくれたのはS氏。
「今日は暑いから、クーラーをかけているんだけど~」
「ありがとうございます!きょうはほんとにあついです」
「おたくの電気はちゃんと足りとんかな、ホームページを見たけど、今日は足りとるのか、足りてないのか、書いとらんみたいだけど」
やや空白があって「もうしわけございません。それは公表していないんです。」
ん?「あんだけ、『電気が足りんようになる、原発を動かしておかなければなりません』と云い云いしとるんじゃから、せめて、今、どんだけ足りなそう、どんだけ危なそう、これだから今日はがまんしてください。みたいなことは載せてもいいんじゃないの。それとも、こんなこと企業秘密なわけ?」
「貴重なご意見ありがとうございます」
んーー?。本気じゃないんだ。現代の大本営は発表もしないんだ。


私はもう誰が何と言おうと、「電力不足でこのクニが危ない」などという妄言を聞く耳を持たない。そんな事を言うケツは、いや、ヤツはクソを食らいなさいだ。

2011年6月26日日曜日

沖縄島 6.23

今朝方、新聞を読んでいたら、6月23日は慰霊の日(沖縄島で日米軍の戦闘が終わった日。1945年)だったと知った。むろんのこと、この日を節目としているだけ。この日以後もこの島では多量の血が流されつづけたのである。どうして、明らかに勝敗の決した戦争をやめることができなかったか。8.15までどれだけの血が流され続けたか。そんな事を考えていると思い出した。
その昔「野良通信」というB4版一枚裏表のミニコミを作っていた事があって、それにこの村の戦死者のことを書いた事があったはづ。さてどこにやったか、家の中をあちこち探して見つけ出した。「2001年9月号」に書いていた。ついでに、それを書いた時の資料も出てきた。『岡山県戦没者忠魂録』(これは県か市の図書館にある)



染みのついたページをめくれば、ひとり一人について、写真・名前・生年月日・遺族の名・最終学歴・職業・軍歴・戦死の月日・戦死の場所の順に編集されている。詳しい。(しかし、戦死の月日はかなりおおまかと考えたがどうだろう。看取る者のいないのが戦場の死ではないのか)
無作為に選び、記述を写せば「高等小学校卒業。船員。昭和19年4月海軍に入隊、昭和19年8月2日太平洋方面にて戦死。」「高等小学校卒業。農業。昭和17年12月25日大阪歩兵隊入隊、昭和18年12月7日ニューブリテン島に於いて戦死。」こんな文体で書かれている。
この本『岡山県戦没者忠魂録』についての感想を書いておこう。「戦没者」としながら、兵のみの記載である。この不備を次に「忠魂録」とすることによって免れている。しかし、いかにも姑息な方法である。言葉の使い方としても間違っているのではないか。「~~戦没者録」と「~~忠魂録」は同じではなかろう。

さて、「野良通信」に戻って記事を要約すれば、「私の集計によれば、この村の戦死者は26名。戦死した場所は、中国大陸9名、東南アジア12名、沖縄3名、その他2名。平均年齢30.6歳」と書いてある。戦時下の人口は調べていないが現在は約500名。おそらく当時もこれくらいだったとすれば、戦死率が出てくるだろう。男子を人口の半分として、兵役年齢該当者をその中から選びそれから、~~、これは私の手に余る、山勘で20%強か?

私は、愚かにも生きている。その上こんなブログを深夜に書き付けている。しかし、死者は誰かの代弁なしには何も語ることはないのである。

2011年6月22日水曜日

ふたたび原発事故のこと

ふたたび原発事故のこと
3.11直後は痺れたように呆然としていたマスコミは、一ヶ月経った頃から原発の是非についてさかんに論じた。ところが、三ヶ月経った今は電力不足をどうする。などと、違うところを目指して迷走を始めたようである。健忘症はこのクニの宿痾(しゅくあ)なのであろうか。
私は、先に「夢見る資格1~4」と題して原発の問題を書いてみた。今度はまた違った視点から私見を述べてみたい。

これは、ウィキペディア(Wikipedia)の画面の写しである。打ち出した日付は2011/3/16。当時、この8枚に及ぶ説明を読んでみたが、私には難しすぎた。とてもアブナイ物という扱いの他には理解し難い中身だった。例えば単位。メートルとかグラムとかという単位ならばこれは体感として解るのだけれど、シーベルト・レムなどは実感し難いものだった。それから三ヶ月経った。それでも、私の理解は一向に深まらない。人を道連れにするのは良くないけど、おおかたのヒトにとっても放射線のことは、そんなものじゃないだろうか。
これはどうしてか、思うに放射線の発見から100年、核分裂の発見から80年、核兵器の製造・使用(ヒロシマ・ナガサキ)から70年、平和利用(この言葉自体、核分裂システムの血塗られた歴史を物語っているだろう。自動車エンジンの平和利用とヒトは言わない)から50年ヒト人類と放射線との付き合いはあまりに短いのである。
たとえば、ヒトと津波・地震・洪水・噴火のことならばこれは数万年来の付き合いである。(それでも、まだまだ未知の部分はある)これに比べるのもおこがましいほど短い、ヒトと放射線との短い蜜月。付き合い方は解らなくて当然なのである。
こうしてみれば、ヒトへの放射線の害について、我々が当面できることは限られていると考えた。統計的手法を駆使して、原因と結果の因果関係を追及すること。それ以外になかろうと思ったことだ。(もっとも、この方法は東電と政府の最も手を付けたくないことがらでもあるだろう。)

付け足し。世界に500あるという原発のすべてを安全点検をしようという動きがある。仮に、その結果、今稼動している原発仕様の安全はおおむねよろしい。という結論が出たにしても、まだ深刻な問題は残るのである。「誰が、運転するのか」という問題が残るのである。日本の50の原発を「誰が運転し続けるのか?東電・関電・中電・電源開発」それでいいのか?という問題が。たとえば、考えられる限り安全な車がそこにあるにしても、運転する者によって結果は違うのである。これについては、私は最近身にしみた経験をしている。

最後に書いておきたいこと。
私はこれを書きながら、以下のフレーズを思い出していた。
「レイテ島の戦闘の歴史は、健忘症の日米国民に、他人の土地で儲けようとする時、どういう目に遇うかを示している。それだけではなく、どんな害をその土地に及ぼすものであるかも示している。その害が結局自分の身に撥ね返って来ることを示している。死者の証言は多面的である。レイテ島の土はその声を聞こうとする者には聞こえる声で、語り続けているのである。」(レイテ戦記 大岡昇平 中公文庫 下巻 P323
ヒト一人の力は実にかよわく、切ないほど弱いものである。しかし、切実で誠実な仕事の射程は思いのほか遠くにまで届いている。

2011年6月18日土曜日

私の青山 2

私の青山 2
この日をさかのぼること、三日ほど前、水利組合の草刈をした。
池堤の上から。この日の参加は13名。
溜池は満杯だった。
カメラを構える私の草刈機も手前にある。この時はまだ足は~。


このとき、左足を挫(くじ)いた。その日はたいしたことなく軽いびっこをひいて歩いていたが、次第に痛みが増してきて、次の日には、なんとこれが生涯何度目かの「痛風」に発展したのである。こうなると寝ているよりしかたない。家の中でも杖を曳き、廊下は果てしなく長くなり、階段は絶壁と化した。
「車で行きます」のメモは、こうして生まれたのである。
さてその日の夜、帰宅したつれあいは、メシも食べずに、部屋に引きこもり布団をかぶって寝てしまった。「何事ならん」と思ったが、何を言っても返事をしないもの、こちらも「有事」を抱えている身、放っておいた。
次の日、よちよちと車のところに行ってみると、ドア(バック)ミラーが
こんなになっていた。

ズート向こうに写っている木(柿の木)にめがけてバックして行ってこのミラーをぶつけた。と、これが後に事故調査員(これは私)に全面自供した彼女の供述のすべてである。此処だけの話、見事な腕前と言わざるを得ない。
それにしても、しかしである。調査員の謎は深まるばかりである。バックミラーに次第に大きく写りやがて(仕方なく、なすすべもなしに?)ガッチャンコするまでに接近してくる木を見ないで、どこを見て彼女はバックしていたのだろうか。(思わぬ身近なところに謎は潜んでいるものである。)
「自分の運転技量を過信しないようにしたらどうなん」と常日頃の劣勢を挽回すべく事故調査員(これは私)は恐る恐る進言してみた。しかし、これは言わずもがなのことだったろう。前日の彼女の凹み様で彼女の過信と反省は証明されていたのだもの。(それにしてもこの者、可愛いところもある)
後刻、車屋に相談したら、元に戻すためには数万円の費用(それも5を越える)だという。青山はまだまだ続くのである。

2011年6月13日月曜日

私の青山 1


私の青山

「人生いたる処に青山あり」という諺があるが、全くそうだと思い知った。
ある朝、つれあいからの、こんな置手紙が、私の机にのっていた。

「車を貰(もら)って行きます」だったら、これは穏(おだ)やかではないが、事務連絡みたいなものだ。
縦書き、横書きの考察(おふくろの横書き)(おふくろの横書き つづき)に凝った経験のある私は、「おや?、これは縦書きだ」私より歳若いこの者が縦書きをする、これは何故か。あれこれ考えた後「自らへのメモは横書きですませるにしても、改まった他者へのメモ(手紙など)は縦書きにする。こんな法則が我等の世代にはあるらしい」と発見したことだった。ちなみに下に最近のおふくろからの手紙。

ここまで、辛抱強く読まれた方は、お気付のように、彼女が車を駆って出勤する事は日常ではない。いつもならば、不肖のつれあい(これは私)が送って行く。(この時間はイヤでも隣同士で座り、その上会話も必要とされる貴重な親睦?の時間でもある)
ところが、この不肖のつれあいはこのとき負傷のただ中にあった。
どうしてか。



2011年6月12日日曜日

地震の沙汰も金次第


今朝の新聞より。
久しぶりに新聞社らしい気配りのきいたアンケートを見つけた。震災後一月の区切りごとに実施し、今回が三回目らしい。人と金が無ければ出来ないことだが、何よりも発想が素晴らしい。
「なんとなくそんなみたい」から「やっぱりそうだな」に飛び移ることは、統計に頼らなければ出来はしないのである。
(これは「毎日」だが、他のマスコミはどうしているのか確認していない。今日はマスコミ論をやるつもりはないのでご容赦を。)
自民党(小泉)政権時代から万円、いや蔓延し始めた「自己責任」のひとつの帰結がここにある。と思ったことだ。

「今ここに生きてあることは偶然(の幸運)に過ぎない」と被災者がインタビューに答えて「自らの命の意味」を「負債」のように捉える光景を目にする度に、私は「政府なるもの」の出番があるとしたら此処だろうと考えてしまう。「幸運にせよ、よく生きていて下さいました」と政府は言ったことがあるのだろうか?

余計なことだが、モジリのもとネタは「地獄の沙汰も金次第」


2011年6月3日金曜日

信任は不信任

「信任は不信任」
いや「不信任は信任」だったか?もう私には解らなくなっている。
昨日はおかしな夢を見た、マクベス(シェークスピア)のパロディーらしい。不条理劇仕立てで、最後までついては行けなかった。あらすじはこうだ。国難山積みのN国の中枢での一幕。
ハテヤマカン元総理が「やめなさい」と迫ったら、カンシャク総理が「やめてもいいよ」という。それなら「つづけてやってもらおう」ということになったらしい。まことに不条理である。不条理劇もここまでくれば、誰もついて行けない。
舞台の袖では、いつものオザワガセ元幹事長はガハハと笑いながら「ヤッパ数は力だよな」と云ったとか云わなかったとか。さて脇を固めていたのは、一夜にして全く逆の立場に立つ事、これこそ「民主主義」と云々してはばからぬ御尤(ゴモットモ)議員たちだった。
(自由にそれぞれの意見を述べそれを誰も妨げてはならない。これが民主主義のルール。と私は思ってきたが違うらしい。議場に入ろうとする議員を拉致する刀舞り[タチマワリ〕?見せ場もあった。)
悩めるマクベスたちは、真面目にやればやるほど、奇妙な台詞を語り、おかしな仕草をするのである。
こうして、悪夢の一夜は明け、私の寝惚けた目に見えたのは「若者の政治離れ」という無残な残骸だけであった。