2011年11月30日水曜日

ナビゲーターに脱帽

ナビゲーターに脱帽
松任谷由実の「ナビゲーター」という歌(1977年)を繰り返し聴いていたら「カーナビゲーション」が欲しくなった。調べてみたらポータブルタイプなら値も張らない。手に入れて、連れて歩いている。「右です」「左です」「道なりです」となかなか働き者だ。そんな声を無視していつもの道を走っていると「ルート再探索中です」としおらしく考え直している。「ざまあみろ」だ、機械といえども女性の指示を無視するのは気持ちがいい。
ところが、今日の事だ、試しに言われる通りに道を走ってみた。すると、何時もよりずっと早く着く。どうやら、私は、三角形の二辺を辿るようなことをズットやってきたみたいだ。思い込みこそヒトの弱点と思い知った。「ナビゲーターに脱帽」。そんな彼女も電池が切れると居場所が解らなくなるらしい、そんな時はいつもの道を辿って連れて帰る。
考えてみればこの技術を使えば運転手なしの車も可能だろう。いやもうすでに、アフガニスタンやパキスタンで無人飛行機が人殺しを仕出かしている。まことに科学技術は諸刃の剣なのである。

2011.11.30の感想

新聞のテレビ欄は少ないスペースに情報を詰めている。これは業界用語・隠語に近い。しかしこの場合関係者は全読者なのである。そして、少ない言葉で意味を伝え、その上感銘を与えようとすることは、「詩」に近いのである。全国民は詩を理解する文学愛好家になるべく日々鍛えられているようだ。
たとえば今日のテレビ欄
「美少女ナマ足」「自動車トップが生出演」このナマと生の使い分け。
「十三の絶品」ジュウソウ=地名らしい。
「おもしろ珍メダル」キをチに替えただけでこの喚起力。
「モーターショー対世界戦略」区切りを間違えると違う世界に行ってしまう。
「スマホが走る」ん~しばらく目が泳いでいた。

2011年11月27日日曜日

境界

午前6時過ぎ、車のフロントグラスの水滴(霧の粒のようなそれ)をワイパーで拭うと水はたちまち氷になる。この不思議。我々の認識は「水」と「氷」この二つをある時点での変化として捕らえている、けれども事はそんなに簡単ではなさそうである。

こんなことは簡単に説明出来る。その声を聞きながら私は他の事を考えている。「時代区分」の事を。古代・中世・近世・近代・現代という時代区分のことを。ひとつひとつを卒業して次の世代に移行した。という認識を私は間違えていたと思う。今までの認識を棄てようと思う。

2011年11月23日水曜日

ふたたび原発について

ふたたび原発について
「安全神話」がくずれた後、このクニがどんな変化をしているか。興味深い記事を見つけたので紹介したい。
政府はこの期に及んでも「徹底した安全対策を行い、安全性を確認した原子力発電所は活用」(国家戦略会議 資料「『日本再生のための戦略にむけて』について」)などとやっているので、お話にならないけれども。
さて記事の題は「浜岡永久停止の『牧之原ショック』」。記事のキレはたいしたことないけれども、中身を要約すれば、地震と津波と原発事故リスクを避けて企業が移転をし始めている。地元自治体も税収減に慌てて対策をとってるが関係自治体相互の軋轢が生まれている。ということだろう。(軋轢を解消する為に国・県は知恵を出せというこの記事の結論は先ほど書いたクニの考え方からすれば空しい注文と言わざるを得ない)
安全神話の元で隠されていた矛盾が顕わになってきていると私は思った。言い換えれば、今までの矛盾は国・電力会社と住民との間にあったけれども、企業と自治体。自治体と自治体。との矛盾が現われてきているのである。もう少し抽象化すれば現代社会を席捲し支配している「資本」のなかに明らかな亀裂が生まれているのではないか。これは私の読み違いだろうか。記事を載せてみよう。
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2011年11月22日火曜日

イッカ・ニカ(一荷・二荷)

イッカ・ニカ(一荷・二荷)
落語「壷算」を楽しんでいると、単位に「荷」が出てくる。「古いところを聞いていただきます」と始める事の多い落語であるが、この話も「明治・大正」頃のようすである。
身近でこの単位を使っている職種があるのをご存知だろうか。「汲み取り」「し尿処理」の業界である。

前にもどこかに書いたが、岡山市の汲み取り代金は高いと思う。他の市と比較したわけではないが、つましい生活を圧迫する額である。見方を変えれば、食うに困れば出るものも出ないわけで、汲み取り代金が生活を圧迫する事もなくなる。でもこれって「壷算」の論理にどこか似ている。
そこで、自ら汲み取ることにした。この計画が家の者にバレれば反対されることは火を見るよりも明らかであるから、秘密裏に事は運ばなければならない。使います物は、タンク・運搬車・汚泥ポンプ。これを購入する。もんだいは「何処へ」運ぶか。これは、柿の木の畑にした。幸い人家からは遠い。
さて決行日を何時にするか。
そんな事を考えていたら、その昔、詩人「田村隆一」が「水を飲み泥を排泄し」と書いていたことを思いだした。さて、観念ではない本物の「泥」を相手にするか。

T氏のこと

「大廻り・小廻り」のT
『環境ネットニュース』に書いてと頼まれた。引き受けたのはいいが、「書いちゃダメ」と言われれば俄然書く気になるのだけれど、「ここに書いて」と言われたら書きにくい事を発見した。それでもこうして書いているのは、どうしてもT氏の事を書いておきたかったからだ。
彼と私の共通している所は「自覚的?産廃被害者」であることだ、10年ほど前に彼の方から連絡があって彼を知ることになった。(その彼の行動力は今の彼を支えているだろう。)「産廃で私の人生(設計)はくるわされた」と彼が言っていると聞いて、疎遠になっていた今の彼に会ってみたくなった。(それは、否応無く、私のこの10年を見直すことになるだろう)
約束の時間に「大廻り・小廻り」山の彼を訪ねる。雑木に蔓の垂れた鬱蒼とした山道を軽トラのエンジンを吹かして登ってゆく。彼は使い込んだ剪定鋏を腰に付けて、迎えてくれた。
訪れた理由を説明すると彼は否定した。
彼の略歴と暮らしを記しておけば、県立農業大学校在学中に「大廻り・小廻り」山を見て「こんな美しいところはない」「ここでのんびり暮らしたい」と卒業後二十歳の時、ここに一町五反の土地を求め入植した。当時(30年前)ここ草ヶ部は葡萄の一大産地だった。ところが入植して一年目、公共事業で農業用の潅水タンク施設を山の中腹に作る時、道を広げ、ダンプカーが行き交う様にすると、たちまち山は残土捨て場、産廃処分場の食い荒らす所となった。以来30年。彼はここで暮らしている。
彼は、私の問いを否定して「いや、産廃で人生は豊かになった、Kさんともそのおかげで合えたし、あなたとも知り合えた」という。そうかもしれないが、「人生(設計)が変わった」のは確かだろう。
彼の主食は畑で出来る(米はできない)サツマイモとジャガイモ。采の野菜は自家製だ。他にキィーウィー・モモ・クリ・カキを作っている、市場に出すけどお金にはあまりならない。
必要の現金は賃仕事で稼いでいる。数年前ガソリンが高騰した時、車に乗るのを止めて今は自転車で移動している、電気代は月3百円。この夏は5百円かかったか?と言う。「ガス」は?使わない、薪で煮炊きする。近くには三軒しかないので「町内会長」をしている。とも言う。
私のところではイノシシが出始めている「獣害」はどう?と聞けば「カラスぐらい。そんなの来たらかなわん」という。
彼の畑には栗の木もある、その下で拾った
再会を約して、山を降りる時、見晴らしのあるカーブで下界を見下ろした。カメラで展望を撮る。驚いた事に、この西大寺の北、瀬戸町に接するこの山(標高200m)から、私の棲息する児島半島が見える。眼下には江戸から明治にかけて開発された田園が広く見える。直接には見えないが吉井川はすぐ近くを流れる。ここは国指定史跡「大廻り小廻り山城跡(おおめぐりこめぐりさんじょうあと)」であった。(七世紀に作られたと推定されている)
千年を遥かに越えてその昔、ヒトビトが暮らしを立てるために「恐怖の想像力」を駆使して建てた山城の跡である。わたしは「呆然」と考える。「この時代のロケットも戦車も戦闘機も核兵器も軍事同盟も、その同じ恐怖の想像力の産物であろう」と。「それらは、いづれ雑木の下に埋もれ、蔓覆うことになるだろう、それまで、我々は我々であり続けているであろうか」と。いや、こうも考えた、先祖伝来のこの「恐怖の想像力」は今こそ、災害に発揮すべきだろうと。「巨大地震・津波・原発事故」これらはすでに「想定」の領域に入った。その時「電力は食料は医療は守れるのか」。3.11で失った物を取り戻すには何十年かかるか解らないけれども、「恐怖の想像力」は今日からでも働かせることが出来るのであると。
聞くのを忘れたけど、独身のT氏にはこれと決めた相手はいるのだろうか。二人(或いは家族)で暮らせば彼の言うようにあんな「のんびりと、なお、美しい所はあるまい」
我々はその時代の経済の制約を受ける、その経済の制約のなかで我々は我々の生活を計画せざるを得ない。しかし、平地に暮らす我々に比して彼の選択幅は格段に広いのである。

ここまで、辛抱強く読まれた方は、「産廃のこと何処に行ったん」とお思いであろう。産廃のことは、彼、T氏を含めてこの「環境」紙上で論議すべき問題なのである。私も参加したいと考えている。

2011年11月15日火曜日

片赤耳の車

片赤耳の車に
数ヶ月前のことだ、つれあいの衝撃的バック運転事故で傷ついていたミラーを外した。付け替えたミラーは以下。


こんなになった。


当時青々としていた柿の木はすっかり葉を落とし、赤い実だけが空しく残っている。その赤に対抗すべく赤耳になったのだろうか?面構えはそんな風情だ。まだケンカ腰!?(中古部品を探したら合うミラーは赤しかなかった。色なんかどうでもいいという判断は私)
グレーの車体に赤耳の車を見かけたら近寄らない方がいいみたいです。それ相応の戦歴の者が操っている。

2011年11月12日土曜日

2011.11.12日の感想

「賛成か、反対か、」「参加するか、参加しないか、」その議論の切羽詰った結末に、起死回生の「ウラワザ」があった。まことに見事なこのクニの政治結末。「曖昧にする・曖昧な言葉で糊塗する」
以前、「信任は不信任・不信任は信任」をやらかしたこの党は、また同じ茶番を繰り返している。私はこの党が以後、何を言おうが彼らの「言葉」そのものを信じない。いや信じられない。
こう言い換えてもいい。他ならぬ「言葉でしか、言葉の表現力だけでしか」仕事のできない者(政治家)が言葉を粗末に扱うことは自裁に等しい。と。

さてマスコミだ。「ついに決断しました」と茶番批判は傍らに置き忘れている。もっぱら熱心にやっているのはTPP参加国の参加事情分析。甚だしいマスコミは「さあ次は消費税論議だ」ともう忘れかけている。彼らとっては何も起きない平和・平安は飯の食い上げだもんな~(そこで誰が苦しんでいるかは興味の外)。何もないように見える所にこそ分析し報道するものが埋もれていることを見抜く能力が彼らにはない野田。マスコミの「良心」など照れ隠しの表装紙にすぎない。

2011年11月10日木曜日

2011.11.10の感想

野田総理TPP会見ドタキャン。
なのだ、
どうしてか。
右肩上がりの経済社会の抱える矛盾は、なんとか先送りの内に霧散してしまうと誤魔化せた(自民・公明政権)
しかし、もう右肩上がりの経済社会は期待できない。
矛盾は衝突し決着することなしにはすまされない。
この構造。


さて、ここまで書いて

次に別の視点で
TPP参加賛成論者は、根本において、右肩上がりの経済社会を信じている。
TPP参加反対論者は、根本において、右肩上がり経済社会を信じていない。
この構造。


民主野田政権は根本において、右肩上がり経済社会を信じているのであろうか。

2011年11月9日水曜日

2011.11.9今日の一句

今日の一句
[一流の胃カメラの技術・そんなもの・このようなものにすぎない?・といささか寂しい・オリンパス・自らの病・明らかにできず・重体]

[家庭料理人・経歴のいささか長すぎたか・犬の飯碗・完食を見て・喜ぶ我は]


ん~。いささか「いささか」が多すぎる。

2011年11月8日火曜日

ツイッターのように140字で


百姓の先生「ラエ」氏を軽トラの隣に、先生の用事をすませる。話題は昔の事。共通の体験、共通記憶。これらがヒトの仲を取り持つ力は侮れない。と思う。歳90と歳60の男同士の仲を取り持つ50年の歴史の記憶、「直接は知らんけど、聞いた話では~」を加えれば、もっと過去まで。ヒトとは何だろう。


犬が庭で座っている。月の光に照らされて。いつからそうしていたのか。いつまでそうしているのか。命とは何か。めずらしく冷える夜だ。これは見たまま感じたままの記述である。このイメージを持て余している。もうすぐ日付が変わる。ひと眠りしよう、目覚めればサッパリと忘れているだろう。ヒトとは何か。

2011年11月7日月曜日

低空飛行・飛行

週刊新聞「民報」に寄ったら、これをみつけた。名前はまだない。

物の名は、どう付けようと、製作者の自由である(子供の名前がそうだろう)が、これをどう名付ければいいのか「低空飛行・飛行機高度測定原理・説明用模型」?おそらく世界にこれひとつしかあるまい。製作者の同意がなければ公開できないから「絵」は今はない。
このような奇妙な発想は誰にでも出来る事ではない。「あんたは変わっている」と製作者は、こと在るごとに私に言うが、そのコトバ「そっくりお返し」したいような一品である。
コトバで表せば、幅5センチ長さ50センチの板(薄い)の縦長方向に筋が引いてある、その筋の所々に(等間隔で?)鉛筆の太さほどの穴が開けてある、五つほどか、その穴に棒が刺さっている(穴が5ならば棒も5なのである)その棒を足にしてこの板と棒の物体は自立している。どうしてか?それは足(棒)が交互に開かれて机(下の面)に接しているからである。板を水平にすれば(ある条件で可能だ)それが飛行機飛行面(線)になるのである。一見オモチャのようでもある。
これは、米軍戦闘機がしばしばニホン国市民の頭上で行う「低空飛行」の高度測定のための工夫である。なぜ、このような工夫がなされるか?米軍は何処をどの位の高度で飛んだのかの事実も資料も公表しないためである。
それにしても、「絵」を手に入れたいものだ。自然光で(フラッシュなしで)、背景はぼかして、少し見下ろすようなアングルで。真横よりも少し縦方向から。これから、メールで頼んでみようかしら。
という訳で、製作者より送られた「絵」
この模型の絵を使い、原理を説明しようと思う。
低空飛行の米軍機は地面に水平に飛行する。目撃者の目線は青い棒である。目撃者の位置と目撃角度(仰角と方角)が複数集まれば(この場合は四名)それぞれの目線が面と交わった点が飛行ルート(線)である。そしてその線の高度も自ずと割り出せる。それを具体に表現したのがこの模型なのである。
この方法の優れているところは、位置と角度(仰角と方角)というヒトの主観に左右されることの少ない要素を使っているところだ。目撃数が増えれば増えるほど「精度」が上がることは言うまでもない。
自分のクニを守るために、アメリカ合衆国と軍事同盟(日米安保)を結ぶことについては、主権者(国民)それぞれ意見の分かれるところであろう。しかし、こと低空飛行(訓練)に関しては迷惑以外の何ものでもないのである。

2011年11月6日日曜日

2011.11.6の百閒

2011.11.6の百閒
どうも、気の向くところが定まらない。仔猫のジャレテいるようである。いい大人のする事ではない。とここまで書いて、そういえば、私は、良いオトナではないと気づいた。
この気ままが、気侭の対象が分散し塵となって消えてゆくものか、それとも思いもかけず収斂してゆくものか。私には解らない。
ここ数日、「内田百閒」を読んだ。そして、感心した。見慣れた絵の中に、思いもかけぬ筆使いを発見したみたいに。
「暗い横町の角を曲がって、いい加減な見当で歩いて行った。今まで、大通りで向かい風を受けていたのに、急に風の当たらない向きになったので、頸から顔がほてって来るように思われた。しかし、その所為(せい)ばかりでもないらしい。軒灯に照らされている表札を見ながら行くと、その家の番地が、だんだん近くなっている。道端に寝ていた犬が寝返りした拍子に、私はびっくりして、飛び上がった。」百鬼園随筆(福武文庫)所収「地獄の門」書き出し。
百閒といえば借金と汽車の旅。これは、高利貸しを初めて訪ねる場面。不安な気持ちが、犬の寝返りを使って表現されている。上手いな~と思う。犬はいなかったんじゃないかと私は思う、実際の犬が寝返りをしたりするのは、日溜りで暖められた背中が痒かったりしてあをむけでゴリゴリするときぐらいであるから。百閒先生の「してやったり」の顔が浮かぶ。
彼の書いたものは、なんの為にもならない。新たな知見も無ければ、人生の教訓もない。あるのは、ウルトラD難度の超絶技巧だけなのである。彼は、生家の酒造所が米を磨いて最後は水のような酒を造ったように、コトバを駆使して純度の高い「水」を作ろうとしたのであろう。誰しも、水ばかり飲んでいては、生きては行けないが、時には無性にうまい水を飲みたくなるのだ。

2011年11月4日金曜日

我がパソコンの今

これを書いているパソコンを強制静音にしている。冷やす為にチップの上にフィン(温水便座の部品)を付けフィンにクリップをまぶれ付かせた。以下絵。壮大な実験が始まっている。

2011/11/4朝

2011114日朝
秋にはよくある事だ。一級河川「旭川」「吉井川」の河口に位置するこの辺りでは早朝から濃い霧につつまれた。たちこめた霧に出勤の車はライトを点けて徐行している。河口を行き交う船々は霧に紛れて見えない。ただ盛んに鳴らす汽笛が「ここにおるよ」と呼び交わしている。犬の遠吠えのようでもあり、最近トンと流行らぬクラクションのようでもある。晴れた朝には気にもとめぬ船の往来なのであるが。
ブログの孤独に寄せて、今日の一句「霧の中に我は一人、思えども、汽笛鳴らして他者確かめる朝」ん~。いつもの字余り。

2011年11月2日水曜日

遠野・物語・序文 1

「遠野」「物語」「序文」
中秋の名月にちなんで九月十三日に、子規先生の我がまま気ままな文章、そのくせ見事な身勝手を読んだ。(「飯待つ間」の月)そうしたら、これまた大先生柳田国男「遠野物語」序文を思い出した。これがまたおもしろい。さて、と書いて。
もう一時間も『遠野物語』を探している。
3月(3.11)の時、津波の項目を読んだ記憶があるから。それから何処へ置いたか。
子規・漱石の明治のおおらか、風通しのいいユーモア。それがこの本の「序文」にもあった。
見つけた。意外に近いところ(枕の横)にあった。少し書き写そう。「初版序文」の書き出し部分「この話しはすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分をりをり訪ね来たり、この話しをせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。(略)願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広のみ」

文語で読みにくいけど、1910年(明治43)に書かれた文章としてはこれぐらいが平均だろうか。1904年(明治37年)漱石によって書かれた「吾輩は猫である」が斬新・異例なのだ。有名な「平地人を戦慄~」のフレーズがここにあることを書き写していて見つけた。ちなみに「陳勝呉広」とは「きっかけ・さきがけ」という意だそうである。柳田氏この時三十五歳、若者らしい率直な語り始めが好ましい。
さて長居は無用だ。この序文の肝。
「思うにこの類の書物は少なくも現代の流行にあらず。いかに印刷が容易なればとて、こんな本を出版し自己の狭隘なる趣味をもちて他人に強ひんとするは、無作法の仕業なりといふ人あらん。されどあへて答ふ。かかる話を聞きかかる処を見て来て後、これを人にかたりたがらざる者はたしてありや。そのやうな沈黙にしてかつ慎み深き人は、少なくも自分の友人の中にはあることなし。」
そうなんだなー。書いちゃあいけん。出しちゃーだめ。と言われると余計にしたくなる。ガマンなんか出来ない。文語のわりには読みやすいのは彼の文才による。柳田民俗学を支えているのは科学の方法、統計の駆使、厳密な論理構成ではなくこの文才に負うところがあると私は密かに思っている。彼は後年民俗学の大家になる。なったのちの悠々とした語り口は私には面白くない。
1935年(昭和10年)の再版覚え書きには、初版は、佐々木氏など関係の者に渡した後、「その他三百ばかりも、ほとんど皆親族と知音とに頒けてしまった。全くの道楽仕事で、最初から市場にお目見えをしょうとはしなかったのである。」と書いている。350部ほどしか刷らなかったらしい。(知音は知恩ではなかろうか)
商売にならない。市場が相手にしてくれない。儲からない。ブログの読者がいない。そんな悩みを持つ者には、この一連の序文は多いに励みになるのである。
これで、「遠野」「序文」はすませた。あとは「物語」。本文の中身を材料にして私見を述べたい。