2012年1月17日火曜日

きのうはあすに

きのうはあすに

新年の詩を持っている詩人は幸せである。なぜなら、一年に一度は思い起こして貰える事があるから。
中桐雅夫1919年生まれ~1983年没
「きのうはあすに」
新年は、死んだ人をしのぶためにある、
心の優しいものが先に死ぬのはなぜか、
おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ、
でなければ、どうして朝から酒を飲んでいられる?
人をしのんでいると、独り言が独り言でなくなる、
きょうはきのうに、きのうはあすになる、
どんな小さなものでも、眼の前のものを愛したくなる、
でなければ、どうしてこの一年を生きてゆける?
『会社の人事』1979年ページ140より。


ところで、ほとんど手遅れなのだが、つれあいは慎重に選ぶ必要がある。今年の正月には『美酒すこし』中桐文子。を手に入れて傍らに置いている。
破滅的に飲んだ彼のつれあい中桐文子が1985年に彼を偲んで?出版した本だ。没後2年か。そこで、彼は完膚なきまでに裸にされている。「序」がすごい、いやこの序だけでも、充分彼は立ち直れないだろう。「かわいそうなひと」と題されたそれは。文末ごとに、「かわいそうなひと」。と何度も重ねて記述され、最後に「彼が死んだ。彼には器用な飛翔はとてもできっこないであろう。ぶきっちょによろよろと、どこに行くのかも解らずに宙空をさまよっているとしか思えない。かわいそうな、かわいそうなひと。」と結ばれている。中桐雅夫の詩友であった、鮎川信夫氏が、マアマアおだやかに、と仲を取り持った、ような解説を書いているけれど、それの結びが「(この本は)強い辛口の酒である。中桐雅夫はしたたか酩酊して、安らかに眠りに就くであろう。人生の苦味をいっぱいにたたえた薫り高い詩で、一切の事が縁どりされていることに満足して。」というのだから、どっちの肩をもっているものやら。
いずれにせよ、できれば、つれあいは「寡黙」を選ぶべきだろう。私の知る限りそんな幸運に恵まれたヒトはいないのであるけれど。
いろいろ、述べたが、だれの味方でもない私にとって、この「序」は「きのうはあすに」と供に忘れるには惜しい作品であるのだ。

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