2012年4月30日月曜日

書見台

書見台
書見台を手に入れて使ってみた。なかなか具合がよろしい。

百姓が体力の衰えを鍬や鎌を始めとする「道具」の工夫でごまかすようなものだと考えた。老眼が進めば決まったところに本を固定してくれる物がありがたい。もっとも道具の工夫はそれだけの事である。私の能力は以前のママであることには変わりがない。これも玩物喪志の一つなのである。

2012年4月27日金曜日

号外

号外

待ち構えていた警察官に捕まった。道路交通法違反。「俺の車は違反したかもしれない。がぁ、運転していたぁ。俺は違反とは認識していなかった」と言ったら「無罪放免」になった。そんなあり得ぬ光景を思いうかべた。我ながらひねくれているな。
夜半、階下に茶を汲みに降りたら「号外」が食卓に置いてあった。夜遅く帰ったつれあいが街で貰ったものらしい。

政界は無罪か有罪かで騒いでいる。しかし、こと「政治とカネ」の事件には(日頃の恨みもあって?)関心の高い庶民が今回「どっちゃでもええ」と思っていると考えた。そうでなければこの不気味な無関心は説明できないだろう。
彼の有罪無罪は「始まっている民主党の終わり」の形にいくらか影響するだけなのだろう。白けて無関心はそのあたりの事情を織り込んでの事なのかもしれない。それよりも自覚していないものの、「民主党無き後」の政治の形が見えてこないことに庶民は心の底では苛立っているのではないか。  

2012年4月24日火曜日

ツイッター風に つづき

4月23日夜、犬どもと散歩。暑くもなく寒くもなく丁度良い季節だ。と思っていると。背中を丸めて犬が糞をする。綱を持つ手が風下にいたので匂う。気付かぬ程の風でも、風上か風下かでこうも違うものだと、思いは原発事故の放射線汚染地域の事に逢着するのである。


4月24日、ツイッターより、橋下氏今日の御言葉。「原発問題の核心的問題は安全性ではない。使用済み核燃料の最終処分問題だ。安全性については色々議論があるにしても、使用済み核燃料の最終処分については誰もが責任ある答えを出せない。日本国中が、使用済み核燃料の最終処分問題を頬っかむりしている。これこそ将来への最悪のツケ回しだ。」注意深く読んで欲しい。彼はまず論議のルールを「安全か否か」から切り離す。そうすることで「再稼働」問題を論点から外す。彼の手法は例外なく「ココ」にある。彼の偽さ加減はここに集約して在る。「原発問題の核心的問題は安全性では」ない。と言った途端、かれは現在の大阪辺りの政治家から、ただの御用評論家に立ち位置を変えているのである。

タケノコノコノコの事

タケノコのこのこの事

いちどイイ思いをしたら、「もう一度同じ思いを」とノコノコ出かけるのがヒト人類の弱点でもあり、可愛いところでもあるだろう。そうでなければ、パチンコ業界、いや「東京証券取引所」もまた存続できない。私はと言えば、もう一度タケノコを獲りに出かけた。場所は前回と同じ古い家の庭。今回は買ったばかりの新しい「カメラ」も持参した。

それで撮った絵を載せよう
向こうの竹藪がお目当ての所だ。石垣の上から竹の根が降りてきている。

中に踏み込んでも目が慣れるまで、タケノコは見えてこない。この絵の真中付近にタケノコはある。
こんな感じで、タケノコはある。目が慣れてくれば
こんな所にも
こんなものも、見えてくる。「ヒト」の目は、いや「命は」と言い換えてもいいか、「保守的」であるから、「新しい芽」はなかなか見極めることが出来ないのだ。見ようと目を凝らす「ヒト」にしか見えないものがある。

買い物カゴに溢れたので獲ることをやめた。半分は糠を使わずに湯で、湯掻いて自家用に喰うことにした。半分は「パソコン先生」に持参しようか。先生は「何時でもおいで」と言ってくれているがその言の意味は「何か持っておいで」とも言っているのだ。持参ついでに「新しいカメラを自慢する」チャンスもあるぞ。

湯掻いたタケノコで、木の芽和えを作ってみた。烏賊と白味噌とタケノコを和えた。食ってみれば、もう少しタケノコに歯応えがあった方がいい。つれあいの感想もそうみたいである。「どんなんなら」「こんなもんじゃない?」。さて、うまい「木の芽和え」を目指していま少しタケノコを探すか。
ココだけの話。料理に関して、言葉(批評)はあまり当てにならない。料理を作る者は、食うヒトの、箸使い、食器の立てる音、歯とスプーンの当たる音、息荒く食うスピード、等々でその料理が成功したかどうかが判る。私は、ずいぶん長く家で料理を供しているが、「オオ、心より欲して食っている」と感じたのは数回しかない。それでいいのだ。旨かった記憶は生涯残るのだから。

2012年4月20日金曜日

ウサギとカメ

ウサギとカメ

「これはしまった寝過ごした。」とはウサギの有名な台詞だ。今日の事だ、パンを仕掛けてオーブンの中に二次発酵をさせたまま、「寝過ごした」。あわてて開けたオーブンの中には巨大な白い塊がブヨブヨ、ユラユラしているのだった。「これはしまったヤッチマッタ。」エエイ!失敗ついでのヤケノヤンパチだ。少し低温(百六十度)でじっくり焼いてみた。するとこの塩と砂糖と水とイーストで怪しげに膨らんだ物体はなんとなくいい感じに焼けてゆく。最後は高温で表面を焼いた。こうして、私のパン焼きの技はまたひとつ増えたのだった。


参考までに、パン生地が乗ったオーブン皿、生地はこの皿いっぱいに膨らんだ。


2012年4月19日木曜日

タケノコ つづき

タケノコ つづき

「チッ・ッッピ・ッッピ・ッッピ」と鳴く鳥が隣の庭にいる。「ッッピ」をひとつ増やして四回繰り返したりしている。バリエーションはそのぐらいで他には無いみたいだ。「ッッピー」と伸ばしたりはしない。こうしてみれば、「定形で」鳴いているのだ。考えてみれば、「ヒト」だって同じ事だ。「あなた」も「私」も、「橋下」も、そして「政府」も定形で鳴いているようなものじゃないのか。と書いていると、驚いた、岡山県知事の石井氏が「道州制推進知事・指定都市市長連合」と鳴き出した。橋下氏などと運動の先頭に立つらしい。音無し鳥が鳴けば意外な調子外れの歌をうたう。私は県民だからこの歌は耳元で聞くことになるだろう。
さて、それはそれとして、私も私の歌を歌おう。タケノコを料理した。揚げとタケノコを煮た。おでんの季節に乗り遅れてさびしくひとりでいたコンニャクも道連れにした。

コンニャクを湯掻いている間に揚げとタケノコを一口大に切った

揚げとコンニャクをまず炊いて味をつけた。ここだけの話、好みで唐辛子を少し入れている。

それからタケノコを入れて、傍らの飲み残しの酒も入れよう

沸騰したら、しばらく煮て、火を止めて味を含ませる。

2012年4月18日水曜日

タケノコ

タケノコ

毎朝、片道三十分を掛けて「つれあい」を職場に送ってゆくのを日課にしている。還暦まぢかの夫婦なんて、こんな工夫がなければ三日ぐらい口を利かなくても過ごせるのだ。今日は珍しく向こうから話題を出してきた。「今年はタケノコ掘らんの?」注釈を付ければこれは「グウタラしてないでタケノコぐらい見に行きなさい」との意だ。こんなだから三日、口を利かないでも過ごせる。
「エイヤッ」と思い腰を挙げて私の管理する古い家の庭を訪れた。

この家の上は竹藪だから庭に竹が侵入してくる。放っておくと屋敷ごと竹藪に取り込まれてしまうだろう。だから竹退治を兼ねて毎年根こそぎ掘る事にしている。さて、タケノコは今年も元気に進駐していた。大小取り混ぜて十本ほど収穫?した。
湯搔いて、さてどうやって喰らおうか。ゆでたままをそのままで。味噌汁の具として。油揚げと炊き合わせて。肉(トリ・牛・ブタ)と煮こんで(これは味噌味でゆくか)。天ぷらにもしたい。出始めた木の芽も使おう。烏賊とタケノコを木の芽を利かせた酢味噌で和えて~。思いは千々に乱れる。料理なんかこんな時が一番楽しい。
まだ手に暖かい湯掻きたてをスライスして皿に載せておいたら、「美味しい」とオフクロが食べている。オオーイ、アンタは明日胃カメラを飲むのではなかったか。

2012年4月16日月曜日

フェイスブックで

フェイスブック遊びを並べた。言い過ぎ書き過ぎはご容赦願いたい。

「深夜目が覚めた。風呂に入った。湯船に浸かって、使わなくなった「湯たんぽ」を洗った。これって年寄りのすることだなー。」 

「深夜。パソコンは設定していた「バックアップ」を始めたらしい。「HDD」の駆動音がしている。バックアップはパソコンに任せて、座机に引き上げた。傍らの本を読む。『新自由主義からの脱出』第六章「新自由主義の反動的脱出策としての橋下主義」。飽くことなしに読んだ。感心した。貴乃花に「感動した」と優勝トロフィーを渡したコイズミの彼のように「感心した」のトロフィーをこの本に贈ろう。」

この本は、以前フェイスブックに書き込んだ私の橋下現象についての以下の疑問に大体の所答えてくれていた。
「議員(政治家)を目指す若者が増えている。とマスコミでやっていたのは少し前の事だった。指南本もあったような記億がある。大阪の橋下現象(維新現象と重ねて良いのか解らない)を理解するにはこの位から考え直した方が良さそうだと思い立った。なぜ橋下なのかは疑問が残ろうとも。それがひとつ。もうひとつは、それが北海道でも、神奈川でも、東北でも、四国でも、九州でも、名古屋でもなく「オオサカ」であること。このことをどう考えるか。差し当ってこのくらいが分析の取っ掛かりだろうか。」

「『原発』は、「爆発する事はあり得ない。」と証明できない(証明している論は見かけない)以上。「原発の再稼働」は、もう一度爆発してもよろしいというと関係者からの承諾(その被害の深さ・深刻さに於いて国民すべてに。いや世界中のヒトビトからの承諾)を得ない限り再稼働の選択はなかろう。これって変わっている「変な」思いなのかなー。」

「野村修也『大阪市役所がどんな「戦場」なのかは、そこに行って戦ってみなければ分からない。11日、大阪市は公選法違反で組合幹部ら13人を刑事告発した。これに賛成でも反対でも構わないが、切迫した現場を踏まえて発言して欲しい。この3ヶ月で私が遭遇したのは、殺人未遂、覚醒剤、地下鉄火災、刺青などだ。』
野村修也氏とはあの「労使関係に関する職員アンケート」を作った人らしい。彼のつぶやきを橋下氏がリツイートしたのが上記の文面。「情緒的」だと読んだ。つまり俺達はこんな犯罪者集団を相手にしているのだ。だから、俺たちのやっている「脅し・恫喝・越権・ムチャぶり」など大目に見ろよ。日本語の常識的読み方ではそうなる。それを拾って自らの橋下ツイツタ-(50万のホローがあるらしい)載せる橋下氏の狡猾。オオ!いづれにせよ、「大目に見ろよ」ということは、法廷では被告の言いぐさだ。彼らにはその「自覚症状」は在るみたいだな。」

「アフガニスタンの日本大使館が攻撃されたという「ニュース」を注目して見ていた。狙われてそうなったのか、それとも攻撃のトバッチリでそうなったのか。マスコミにはそのことを報道して欲しいと思ったことだ。このふたつは決定的に違うであろう。今のところそれについての報道は寡聞にして聞かない。『テロ』はダメ。『邦人は無事』。のような政府の発表のレベルでは市民が「大マスコミ」に金を払っている意味はなかろう。」

2012年4月14日土曜日

グーグル画面を開けたら

グーグル画面を開けたら


「ドアノー」生誕百年の画面があった。彼と聞けば「水溜まりを飛び越える」写真を思い浮かべたが違うかも知れないな。(「水溜り」写真は、「アンリ・カルティエ=ブレッソンサン=ラザール駅裏、パリ、1932年」。だった、つまり間違えていた)。ドアノーと聞いて「ジャック・プレベール」を思い出した。私の持っているドアノーの本。この中に彼(シャンソン「枯葉」の作詞は彼だ)のポートレイトがある。それがちょっといい。


プレベール。彼の詩。「バルバラ」を載せてみよう。
「覚えているか バルバラよ

                             ジャック・プレヴェール/大島博光訳

覚えているか バルバラよ

あの日ブレストに おやみなく雨が降っていた

きみは 微笑みをうかべ

うれしそうに明るく顔を輝かせて

雨のなかを歩いていた

覚えているか バルバラよ

ブレストに おやみなく雨が降っていた

シアム街で わたしはきみとすれちがった

きみは微笑んだ

同じように わたしも微笑んだ

覚えているか バルバラよ

きみを わたしは知らなかった

きみも わたしを知らなかった

覚えているか

それでも あの日を覚えているか

忘れずに思い出せ

ひとりの男がポーチのかげに身を寄せていて

きみの名を叫んだのだ

バルバラ と

するときみは 雨のなかを彼のそばに駆けよった

明るく顔を輝かせて うれしそうに

そして 彼の腕のなかに身を投げた

それを覚えているか バルバラよ

わたしが 「きみ」と親しげに呼んでも

きみは そういうわたしに答えてはくれまい

それでもわたしは 愛するものすべてにきみと言う

一度も会ったことのないひとにさえも

愛しあうすべてのひとに わたしはきみと言う

その人たちを知らなくとも

覚えているか バルバラよ

忘れずに思い出せ

あの しあわせな町のうえに

きみの しあわせな顔のうえに

降っていたあの しあわせなやさしい雨を

海のうえに

兵器廠のうえに

ウッサン島の舟のうえに

降っていたあの雨を

おお バルバラよ

戦争とはなんとばかげたことだろう

いま きみはどうしているか

この 鉄の雨の下で

火の鋼(はがね)の 血の雨の下で

そうしてきみを 愛情こめて

腕のなかに抱きしめたあの男は

死んで亡くなったのか

それともまだ生きているか



おお バルバラよ

ブレストに おやみなく雨が降っている

むかし降っていたように

だが それはもう同じ雨ではない

すべては 傷(いた)めつけられ崩れ落ちた

それは 怖ろしくも悲しい喪の雨だ

それはもう 鉄の鋼(はがね)の 血の

嵐でさえもない

ただ単純に 雲なのだ

犬どものように死んでゆく雲なのだ

ブレストの流れに沿って

あの犬どもは 姿を消し

遠く ブレストからはるか遠くへ

行って 死に

もう あとには何も残っていない」

小笠原豊樹(岩田宏)訳。大岡信訳。いろいろある。ここでは、大島博光訳を選んだ(これが私の好む訳では必ずしもない、しかしそれはまた別の話だ)。一読して「愛と反戦」をテーマとしている。「ドアノー」1912~1994。「ブレッソン」1908~2004。「プレベール」1900~1977。いずれも、世界大戦を経験し、なお第二次大戦の只中を壮年で生きた(生き残ったと言ったほうが正確か、裏切りも卑怯もそこでは日常茶飯であったろう)。今ではここで歌われているような「マッチョ」なオトコはいなくなったし、その視線の先の清楚な娘も見かけない。にも関わらず私がこの詩を忘れ難いのは。ただ一点、切ないとも言える平和への希求の強さにおいて。

追伸。こんな粋な詩も思い出した。今度は小笠原豊樹(岩田宏)訳で
「夜のパリ

三本のマッチ 一本ずつ擦る 夜のなかで

はじめのはきみの顔を隈なく見るため

つぎのはきみの目をみるため

最後のはきみのくちびるを見るため

残りのくらやみは今のすべてを想い出すため

きみを抱きしめながら。」

2012年4月12日木曜日

運転するには資格がいる

運転するには資格がいる

口を開けば「昔のこと」で恐縮している。冗談じゃなく「年」だな。なんとかしなくちゃ。こればかりは何ともならないか。
1970年前後は若者の興味の対象は「バイク」だった。ホンダ、カワサキ、ヤマハ、スズキこんな企業が海外向けに作っていたバイクを国内でも盛んに売っていた。設計が海外向けだからシートの高さが私なんかには少し(だいぶんか)高すぎて、それが私の悩みだった。
      DT250  YAMAHA 1968年。このバイクのデザインは群を抜いていた。

また、若者がおとなしくバイクに乗るわけはないから、我が工業高校は毎年一人づつの割合で事故死者の出る環境でもあった。
学校では、バイクの免許を持ったばかりの生徒を集めて「安全運転をしろ、運転をするにはそれなりの資格がいる」と講習していた。どんなことでそんなことを聞いてみたくなったのか忘れたが、私は「先生、足の長さというのもその資格のひとつに入るんですか」と聞いてみた。先生としてみれば乗ったら危ない運転をするに決まっている生徒達を前に、この話に飛びついてきた。「もちろんそれはある」。
原発の運転の資格をめぐって、私は考える。もともとの生まれついた条件で「運転する資格の」ないクニだってあろうじゃないかと。

2012年4月10日火曜日

核の時代

核の時代

さて、ほどなく新聞が配達された。新聞読みの感想を書いておこう。『毎日』一面の記事を見れば「大間工程表基準に適合・政府稼働判断へ」「北朝鮮ミサイル公開・北東部では核実験準備か」このふたつの記事が大半を占めている。中身の判断は別として、我々は我々が思うより深く『核の時代』に生きている。と思ったことだ。

瓦礫受け入れ処理の事。食品中の放射能基準の事。汚染地域の除染の事。この夏の電力不足の話題の事。解きえぬ話題はすべて『核』絡みなのだ。

制御することが本質的に出来ぬ物を扱う事。(それを国防に、電力に、どういう理由であろうとそれを使う事)それはトイレなきマンションに住むことに等しい。このことは、我々の精神構造の深い所で「ニヒリズム」と「享楽主義」熟成させるだろう。

私だけに限定してみれば、どちらも私の好むものであるが、クニを挙げてヒトビトがそれに陥ることは「やめたほうがいい」と思うものだ。

いつものことだが

いつものことだが

早朝起きだして台所でコーヒーを飲んでいる。考えることは朝飯メニューをどうするかだ。誰が食うか。その者の体調はどうか。前夜の残り物は何か。手持ちの食材は何があるのか。思ってばかりいないで「エイヤッ」と元気を出して畑にゆけば何が採れるか。菜花、芽を出したばかりの韮(ニラ)があろう。(韮の卵綴じを半熟に作って、熱々ご飯の上に載せて少し醤油を垂らして)。こうしてみればメニューの連立方程式を解くのは難しい。暫(しばら)く思案した後、菜花をサッと湯搔いて、その茹で汁で乾麺(うどん)を湯掻いて、その残り汁でゆで卵を作って。前夜抽出しておいた出し汁に揚げと竹輪を入れて醤油で味を付けて~。菜花を載せた「うどん」にすることにした。

テレビを点ければ、消費税について報道している。それによれば、旬の話題は「消費税を上げるか否か」ではないみたいだ。(増税を前提として)各党が争っているのは、「上げ方の方法」「上げる率」であるらしい。甚だしい政党(自民党だ)は、「我が党は消費税増税から逃げない・ぶれない」と言っているのだって。これって、倒錯を超えて『変態』だなと思う。付け加えればこの口調、大阪の『橋下』の口調に似ている。(案外気が合うかもね)

さて、それはそれとして、まだ暗いものの東の空が明(あか)らんできた、菜花を摘みに行こうか。

2012年4月9日月曜日

帰郷

帰郷
二十歳の頃から故郷を離れ、家を出ていたオフクロの娘が職を全うし、この3月で定年を迎えた。仕事の都合で故郷の桜を見る機会がなかったので今回の帰省を「楽しみにしている」と言って来ているとオフクロが私に言う。

帰郷をオフクロもまた心待ちにしているみたいである。ここ数日家の片付けに忙しくしている。
こうして書いてみれば「目出度い話し」だなと思う。
剣呑な弟はそんな素振りは見せないけれども。

2012年4月8日日曜日

岡山県瀬戸内市牛窓の「熊谷守一」展つづき

 岡山県瀬戸内市牛窓の「熊谷守一」展つづき

書くことに行き詰まると、絵(写真)に逃げる傾向が私にはある。机の引き出しに転がっていた「フォトショップエレメンツ7」をパソコンに取り込んで絵(写真)を加工してみた。

いつからなのか、揚げられたままに「挫滅」している舟。「おりいぶ」と船名が読める。おそらく、「瀬戸大橋」開通観光がらみでこの地の産物「オリーブオイル」と観光振興を当て込んで作られたものだろうか。とすれば、1980年頃の物だろう。1987開通の本四架橋「瀬戸大橋」の試みもまた「挫滅」しかけている。「我々は愚かのままで種の終焉を迎えるのであろうか」

こんなものがあった。懐かしい。使われてはいないらしい。舟を逆さに置いているだけの様だけれども、これは船ではない。凹型なのだ。FRPで作る小型船はこれを凹型としてその内側に本体(船体)を形成し舟を作る。何でそれに詳しいのかを述べれば、1972年に高校を卒業した私は、在籍した学校(大学)には行かずにFRPで舟を作る作業所のアルバイトをしていたことがあるからだ。
瀬戸大橋の本州側(下津井)にあった作業所は今はない。とっくの昔に潰れた。それには、私の「失態」も絡んでいたのかと思う(真相は解らない)。今思い返せば、その作業所は瀬戸大橋絡みで作られた物だった。準備に十数年、建設に十数年掛かるような巨大な国策工事は地元対策も欠かせない。作業所の社長の親は下津井の市会議員だった。作っていた舟は瀬戸大橋建設絡みの「海洋調査会社」(〇〇水中開発だったか)の舟だった。(こうしてみれば、原発絡みの地元対策がどれだけ深く長く地元に浸透しているかが類推できる)
失態の中身も書いておこう。FRP製の凹型の内側にやはりFRPで舟を作るのであるが、FRPどうしはそのままでは、刳(く)っいてしまう。そこで剥離剤としてワックスを凹型の内側に塗るのである。この作業を私がやった。単調で面倒でなお手抜きの出来る作業を私は真面目にしなかったらしい(悪意はなかった)。完成した船体は、作業所社長以下従業員の見守る中、完璧に剥がれること無く凹型を保っていた(これでは凹型も二度と使えない)。即日、私は馘首となった(職場に未練は不思議と無かった)。それから程なく、風の便りに作業所が「潰れた」と聞いたのである。
私には私にしか出来ない事しか出来ないのだ。その罰はもう充分受けている。

2012年4月4日水曜日

いづれにしても

いづれにしても

私の子供が、体育館で倒れたのは、もう十五年以上前のことだ。彼女が中学生になりたての時だったと記憶している。何のことはない、よくある学期始めの朝礼の時のことだ。そんな事を学校から知らせてきたので、倒れぬように子供を鍛える代わりに、校長に会いに行った。様子の良いとはとても言えない父兄が訪ねてきたので、彼は少し驚いているみたいだった。私の言いたかったことは「思春期の体調不安定の子供を立せたままの朝礼は改善したらどうか」ということだった。「おかしいと思ったらしゃがみなさい。とは言っているのだけれど」みたいな返事だった。(毎年ブッ倒れる子供が続出する事の説明にはなっていない)「いづれにしても」座って聞く事ができる話を立たせて聴かせる理由はないんじゃないか。と言い、そんなやり取りをして、腰低く「また何かあったら来てくださいと」送り出された。
聞く処によれば、その彼(校長)は以後体育座りでお話を聞いてもらうことにしたらしい。私にしてみれば「いづれにしても」という否定し、なお接続する「接続語」が私の口から発せられた事に自分が驚いた事を覚えている。子を育てている「親」はいつの間にか新たな能力も開発されるらしいのだ。
これって、私は文句言いモンスターだったのだろうか。
そんな事を、大阪の礼儀にやかましい市長の話題に思い出した。(これで、止めておけばいいのだが。)

ところで、その後の中学校はどうしているのだろう?と電話を掛けて聞いてみた。出てきた校長の歳を聞いてみたら私と同い年。昔は「キオツケ、中指はズボンの縫い目に」みたいだったな~、と言えば「何事も軍隊式でしたな~」と、意気投合。「今はどうしてられる?」と朝礼の事を聞けば。「実は自分もぶっ倒れた事がある」と告白した彼は、座らせているとのこと。「これって、上からそうしろと指示が来るの」と聞けば、「それはない」とのことだ。教員一筋の彼に記憶を辿ってもらうと、十五年前ぐらいから座らせるように変わって来たそうだ。学校だって変わろうと思えば変われるんだ。倒れた経験のある校長先生もいることだし。
ついでに「国旗掲揚・国歌斉唱」の事を聞いたら「これは上からの指示がある」とのことだ「岡山は左がかった先生がいないので問題は起こっていない」とのことだ。初めからそんな「左掛かった」教員を採用していないのかも知れないな。と思ったがこれは言わなかった。論争をするために電話を掛けたのじゃないから。

追伸。この記事を書いた後、つれあいに「子供が倒れたこと憶えているか」と聞いたら憶えていた。ついでに、「中学校の校長も倒れたことあるらしいで」と教えてやったら「私も倒れたことある」んだって。意外な弱点を見つけたぞ。でも互いが互いの杖になってようやく立ってられるような歳になって、弱点の発見も遅いにスギルか。

2012年4月3日火曜日

猫が「ギャー」と奇声を

睨み合っていた猫が「ギャー」と奇声を

挙げて互いの体に爪を振るうような今日の風だ。近くの児島湾大橋が「通行止め」になった。こんなのあまり記億にない。(もっとも、私の記億なんて、たいして正確ではないのだけれど)そのくらいの風が吹いている。家に「ドォーン」と風が当たると「グラッ」と家が揺れている。その度に「おいおい大丈夫なんかよ~」と新鮮に思う。揺れるといっても高層マンションに住んでいるわけではない、「木造モルタル、一部2F」みたいなもんだから、要するに「安普請」ということだろう。風が吹き始める前までは「我が家」には「信頼」という言葉を与えていたんだがな~。私の「信頼」なんてこんなものだ。
ところで、白く波立つ海を見ていたら「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」という歌を思い出した。これを書いた「斎藤茂吉」は散々戦争を煽る歌を書き散らした後、敗戦後故郷の東北に隠遁(遁走?)した。「国敗れて」も故郷の「山河」は彼を癒したのだった。この頃はまだ原発は無かったから、彼には帰る(逃げる?)ところがあった。これはまた別の話になるか。それにしても「言葉の喚起力」も捨てたもんじゃないな。

2012年4月2日月曜日

これもまた国体護持?

今朝の国体護持

今日の「毎日新聞」一面。福井県大飯原発稼働に「賛成33%、反対62%」。再稼働に「大阪」がイチャモンを付けているとある。これって、原発再稼働を前提とした話だな。つまりこのクニは原発を基幹エネルギーとしてすでに選んでいる。「原発を国の基とす」との「国策」にいささかの変更もなし。これって、敗戦1945年に至る過程によく似ていると考えた。すでに「戦況は負け」と明らかになっていたのにもかかわらず、「撤退・後退・撤収」の選択はせず。「転進・転戦」で誤魔化して犠牲を拡大しづづけた。あの歴史とどこがどう違うのだろうか

2012年4月1日日曜日

岡山県瀬戸内市牛窓の「熊谷守一」展

岡山県瀬戸内市牛窓の「熊谷守一」展

突然誘われて、岡山県瀬戸内市牛窓の熊谷守一展に行った。

おふくろを誘ったのは叔母。「アンタはどうする(絵なんか落ち着いて見るようなキャラじゃないけど)」と言われて、私は彼女達の足となった。三人揃って225歳だ。昼前に出発、絵を見て飯を食おうという目論見。何にしろ合計年齢が前記のごとくなのだから、何をするにしても手間がかかる。昼飯にあり付いたのは、午後も随分経った事になった。話題がこれまたすごい、親戚の話題に「30年に」と言うから「西暦でか?」と聞けば「明治の」だって。叔母は「帰りは私が(運転する)」と酒を馳走してくれた。ここだけの話、飲んでいなければとても助手席には乗れなかっただろう。お二人は「楽しかったね」と上機嫌でご帰還。それがなによりの遊行であった。

瀬戸内市立美術館から空を見れば、こんな感じ。
海辺のこの御影石の立派なこと、私が棲息する土地とは指呼の距離だから、私の地域も良き石の恩恵を受けているが、ここには敵わない、宝石のような石を波消(なみけし)の捨石にしているこの贅沢。


沖を見れば、今は亡き叔父(叔母のつれあい)とチヌ釣りに何度も通ったテトラポットの一文字堤防が見えた。今さらながら「此処だったんだ」と感慨に耽った。その向こうの島(前島)の民宿に子を連れて何度かお世話になった事も思い出したぞ。


の感想を述べておけば、ほとんど世間と交渉を持たなかったという、熊谷氏(188o明治13~1977昭和52)であっても、1945年(戦前と戦後)を境に明らかに画風の変化が見られる、どんな画家もまた、「時代の子」でしかあり得ないな。