2015年12月1日火曜日

ソウルフード

大正末年1925年生まれのおふくろは岡山市の街場育ちだったからお好み焼きのルーツ「ねぎ焼き」を一銭洋食という名前とともに懐かしがる。ねぎ焼きの味付けは醤油だ。
私の子供の頃1960年ごろにはあのお好みソースが開発されていて子供は卵をひとつ掌に入れて近所のお好み焼屋に駆け込んで豚玉を焼いてもらっていた。
今から思えば、一銭洋食を食っていたくせに、私にはそんなお好み焼き食いを禁止していた彼女の子育てって矛盾しているよな。

2015年11月9日月曜日

偽装の夫婦のこと

「偽装の夫婦」というテレビドラマにハマっている。今時のはやりの言葉で表せば「キターッ」ってところか。天海祐希いいな。このドラマはホモセクシャルを手がかりとして紆余曲折の末「夫婦って」すばらしいと結論付けるらしい。それはそれで文句はないエンタテイメントだ、楽しみのための物語だからな。私にしてもなんとか我が「夫婦」を維持しようとココロを砕いている日常なのだから、カンタンに「夫婦?ヤメときなハレ」と結論付けられると困るところに人生はある。それはそれとして、天海祐希がいい。五話の最後の3分を見て欲しい。カメラワークも良いけどそれを超えてその要請に応える彼女の表情の七変化。感想、表明、内証、変化、表明、さらなる表明、驚き、失望、鎮静。検索してみれば、歳五十になるという彼女は凡百の俳優を超えて怪優に変身しつつあるのではなかろうか。若者たちには非情と聞こえるかもしれないが、豊かな資質と才能を持って出発したとしても、研鑽を積むことによってしか得られぬ物もあろうではなかろうかと思ったことだ。「キターッ」と関係の者も思っているのではないかしら。

2015年11月2日月曜日

篤姫のこと

NHKの朝ドラをビデオに録画している。見ること無しに溜まったら適当に消していた。消す前に見てみようと、今日の分を再生して見た。オオ「篤姫」が出ているではないか!当時、うちのものだったかしら?「美人じゃないのが良いね」などと言っていた。(オンナはオンナに厳しい)。絵を見ているとこれは「劇画」だなと思った。ひとつひとつのフレームが劇画の手法そのものだ。思うに、このドラマは朝ドラの系譜を踏み外す事なく「オンナの成長物語」に終始するだろう。それはそれで文句はない「御自由に!」である。しかしとも思う、若い女の生態を金儲けの種だけにしてもらいたくないなと。いや、換言すれば。そんな事でしかドラマは作れぬものなのかと。

2015年10月19日月曜日

昨日と今日との日付が変わるころ

昨日と今日の日付が変わる頃、犬どもを連れて散歩に出た。オリオンが東の空に上がりかけていて、昴は天頂にある。私は上ばかり見て歩いていたが、犬どもは草に点いている獣の匂いばかりに興味があるらしい。犬に言わせれば「こんなに芳しい地上の匂いを知らないなんてバカ!」なんだろう私は。

2015年10月9日金曜日

2015.10.9の日記

しんぶん赤旗2015.10.9「潮流」http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-10-09/2015100901_06_0.htmlを読んでいたらあることを想いだした。加藤周一のベクトル。鶴見俊輔の「歴史学の生きた課題」。

ニュートリノ。「存在はする」のだが何でもかんでも反応なしに通過してしまう物質を「反応」を感知することで見つけたのだと読んだ。(ニュートリノに触発されて、ニューメキシコ、ニュージヤージー、ニューヨークを思い浮かべた。ところでニューバージニアは何処に有るのかしら)

「反応がなければ」その存在は感知されない。そういう事になろうか。

たとえば光。光を反射スルことでモノの存在は認識される。(良く磨かれたガラスは時としてヒトに悲惨な結果をもたらす。)いや、ヒトにひかりの知見をもたらす網膜もまた光を受けて反応する。

反応がなく認知されない存在が微細でとるに足らぬモノ(無視しても良いモノ)とは言えまい。イヤむしろ、そういったそういった存在によって我々の今が規定されているという考え方も認められるだろう。

加藤周一。鶴見俊輔。おふたりとも故人になられた。彼らは今まで述べた「見えないが見えている物よりも重要なモノ」を追求されて来た。

言葉はことばだ

しょせん言葉は言葉でしかない。しかし、母語ニホン語のヒトビトは人生最後の言葉を「もっと光を」英語で、「息が苦しい」をラテン語で発する事はまずあるまい。例外なくヒトビトは断末まのときでさえ母語の言葉を発する。このことは我らの使用する言葉がここにあるというだけで幸福な事なりと言うべきなのだろう。方言を駆逐し、植民地においてはニホン語を強要したこの国では。ところで、
我が気持ちを「言葉」に翻訳?して記述することを面倒なりと思い始めている。 
 発端は「毎日新聞」2015、10、4日2面の記事。見出しだけ記述する。「シリア遠のく和平・自国利益で介入相次ぐ・米大統領露を批判」記事の趣旨はロシアがシリアで空爆を始めたということ。それだけだ。それだけの中身に「シリアをめぐる相関図」まで添えて2面のトップに載せる毎日新聞編集部の意図は何か。それは「嫌ロシア」の世論の形成だろう。この記事には「自国利益で」アメリカが以前から空爆をしていた事、それへの批判は無論ない。だって客観報道だもの。母語の使われるこのクニは「自国利益」のためにどうしているかの記述もない。だって客観報道だものな。我が国においては縦横無尽に上空を占拠しているアメリカがシリアにおいてもそうである事、あった事に今更「毎日新聞」は驚かない。換言すればそのに独処にロシアが割って入った事が「ニュース」なんだろう。

内閣が替われば「提灯記事」(ヨイショ記事)、「ご祝儀記事」を書くことがマスコミの習いだった。しかし今回(内閣改造)の場合「毎日」は違った。わざわざアンケートまでとって、否47%、諾22%と報じている。毎日安倍と一緒に寿司をつまみつつあるわりには辛口だな。裏側から見れば安倍一族慢心の証ということであろうか。
 
「民主主義」とはなんだろう。多数に従うこと。少数の意見を尊重すること。そんなありきたりの説明に腑に落ちぬ思いがしていた。昨日のことだったか3.11震災犠牲者の身元不明遺体の特定過程がニュースになっていた。それを見て「そうなんではないか」と思った。「ひとり」を、タダのひとりであっても、(いやそれだからこそ?)多数と同じように尊重する。この事の意味。
多数者のひとり、少数者のひとりはどちらも「ひとり」として尊重されてあたりまえ。そんな価値観。
良くも悪くも「個人主義」などという物はそんな土壌からしか生まれないのではなかろうか。  

「右を見て左も見てもみんなが渡らなければ渡ってはいけないよ青信号」近くの交番のポスターに有ったような無かったような。

2015年10月5日月曜日

外付けHDDが

テレビに繋いである外付けHDDがカリカリ鳴りだした。巷では寿命は三年と言われているからそろそろ壊れるのだろうか。DVDに焼き直して保存するのが対策らしいけれどどうしようか。個人的な楽しみのためとか、ちょっとした備忘のために録っておいた物だからそこまで手をかけることもあるまいとも思う。それにしても紙にのみ記録していた時代に比べてこの電気時代の記録の脆いことよと思い知ったことだ。紙の時代に生まれた私のような者は記録媒体に対する過剰な思い込みがあるのかもしれない。私個人の記録などはどうでもいいとしても、公の記録も電気記録に置き換えられているからコレの寿命は大丈夫なんだろうか、それともうひとつ、公の記録で心配なことは私が難なくテレビ由来の情報を記録出来たように無限のコピー可能性がこの電気記録にあることだろう。「脆弱性と無限性」厄介な時代だな。そうだからだろうか「内閣法制局」は記録を残さないことにしているらしい。私のようなものでも備忘のための記録は残しておいたというのに。

2015年10月3日土曜日

ワーゲンのこと

フォルクスワーゲンの事。5年ほど前にこの会社の「ポロ(9N)」を中古で買った。つれあいが通勤と里帰りに使っている。この者は家の中の掃除はしないがクルマの中は綺麗にしているみたい。遠慮しいしい乗ってみると「良い車だ」際立ってどことして優れているわけではない。重いし、もたもたしているし、防音もいまいちでエンジン音・タイヤからの音も充分に聞こえる。窓の開け閉めは重くて鈍重だ。その上壊れやすい(半年ほど前にウオーターポンプを交換した)。しかしであるこのクルマは優れている。非力ながらもエンジンはスムースに吹き上がる。それだけではない、それはこういうことだ、タイヤからの情報(小石を踏んだ・縦縞の入った道を走っている・ナドナド)をハンドルに伝えてくるのだ。これはわたしの日常使いの軽四(スバル・サンバー。スバルR2)にはない事だ。ちなみに十年ほど乗ったスバルのレガシーはハンドルを切れば姿勢を変えること無く即そちらに向かうという優れたハンドリングの持ち主だったがタイヤの体験している情報をハンドルに伝えることはなかった(パンクしていても気づかないほどにガチガチに足回りを決めていた)。そんなだから、ポロのパワステの構造は如何になっているのか知りたいところだ。
さてワーゲンが環境対応の検査を、エンジン制御ソフトで誤魔化していたという件だけれど、私の住まいするこのクニならば検査組織に鼻薬を効かせてごまかしてしまうのではなかろうか。役所の不正は民間の不正よりも表に出にくかろう。
ワーゲンがどうなろうと私の知ったことではない。しかし同じような愚鈍で鈍重な、しかしクルマ車したクルマを作る会社があれば私はそのクルマを買うだろう。おそらく気にいって乗っているつれあいも反対はしないだろう。
たとえは悪いが、アフリカあたりで少年兵の持つ小銃はおしなべて「カラシニコフ」みたいだ。構造が簡単で精度も適当だが実用に耐える。ワーゲンの優れているところはそんなところではなかろうか。

これを書いた数日後、深夜四時過ぎのこと、二km離れたコンビニへ「ポロ」で行った、輸送業の大型トラックが何台も泊まっている時間帯だった。タイヤ一回転ごとにハンドルに答えが来る。言う所の「フラフラ」している状態だ。起き出してきたつれあいに「最近ぶつけたか?」と聞けば、縁石に乗り上げてホイールを曲げて以来「ぶつけ」てはいないと言う。「フラフラする?そんなんハンドルをシッカリ握っているから大丈夫だー!」とのこと。それでは対策にもなんにもなってない。
近くのカースタンドで前タイヤのホイールバランスでも取ってみようか。


2015年10月2日金曜日

2015年10.2の記録

ひとしきり降った雨が、突風混じりの強い降りを境にあがった。午前三時、昨夜の降雨で散歩をキャンセルされていた犬どもを連れて外に出た。東の空には冬の星座「オリオン」が居る。ほとんどの街灯がLEDライトに変えられて入ることに気付く。明かりのない家は空き家だ三軒にひとつはそのようである。かろうじて明かりの点くあの家もこの家もみんな私より年上のヒトが住まいする者と改めて気づく。私は年60を過ぎた、この半世紀は激動の期間であったのである。

2015年9月28日月曜日

アベ氏の新たな三本の矢

    「喋り方がキライ」ならまだしも「なんだかキモチ悪い」。こんな風に切って捨てられたのでは身も蓋もなかろう。私もそう言われているのだろうか?。「アベノミクスの新たな三本の矢」についての感想を聞いてみたら、つれあいからはそんな感性的な返事しか返らない。言われてみれば、安倍提案は要するに「感性的な政策提言」なんだな。感性には感性で?それでは議論にはならない。

2015年9月21日月曜日

ラグビーの事

日本チームが南アフリカチームに勝った。番狂わせらしい。録画の映像を見れば、 お決まりのごとくアナウンサーが「にっぽん・ニッポン・サムライジャパン」を絶叫していた。しかし絵を見る限りでは「日本チーム」にはいわゆる外人さんが多いみたいである。ニュースでこの経緯を知った
つれあいなどは「ニッポン言うても多国籍軍みたいじゃ」と言ってい(こいつは遠の昔に私に対する尊重の念を失っているが今また愛国の念も失いつつあるのか)。
多民族国家、アメリカがそうであるようにグローバルの時代の『ニホン』の姿はかく有るのが良いのかもしれないと思ったことだ。

2015年7月18日土曜日

杞憂であればいいのであるが

    コレが寓話であればいいのである。
    戦争法案に賛成した国・県・市などの議員(自民党・公明党)がこれからしなければならない仕事はこれだろう。
    「有力な支持者達の子弟」の徴兵逃れの口利きだろう。
    議員の仕事は「口利き」なりと心得ている彼ら彼女らには苦もなき事であろうか。

あっち向いてホイみたいに


    今朝のおおかたの新聞、一面は「「新国立 計画白紙にーー首相表明」(これは毎日新聞)だろう。
    「あっち向いてホイ」みたい。私が驚いたのは、この人物の一言ですでに決まっていた事が白紙に戻る事だった。このクニでそれが出来る人物はそんなに多くない。
    インターネット空間を浮遊している限りにおいては、この人物の挙動はともすれば「お笑い」の材料に成りかねないのである。それだからこそ「驚いた」。
    私の生息する地方都市の片隅ではいざ知らず、オリンピックの話は首都圏辺りでは「決まったぜホイ、後は儲け話に花を咲かそうや」みたいな有り様であったのではなかろうか。ああそれなのにそれなのに、驚いたことに。
    ことほどさような「決定権」「決定を覆す権力」をこの人物が持っていようとは私の想像の外のことであった。...
    そうであるならば、今からでも遅くないこの人物のヒトコトで「戦争法案決議」を覆してはどうかと考えるのは愚かな私だけの夢想であろうか。

2015年7月16日木曜日

備忘のために

我が母は、この世とあの世の境目に居るのだと医者の説明を聞いて後に帰宅すれば、閉め切っていた家の中はムッーとした空気が充満している。外は台風の風が雨粒混じりに吹き荒れていた。エイヤッ!と窓という窓を開け放せば一陣の風と共に、卓上の紙類(メモ類)が吹き飛ばされた。言葉や紙やSNSなどに構っていれば一陣の風にさえ抗(あらが)えぬものなのだな。

今日、言うところの「戦争法案」が国会(衆院)で可決された。首相のいう「我軍」から死者がでることだろうと考えた(その数倍の他国人を殺しながら)。
国会の定席で、彼は戦争法案反対討論を聞きながら「退屈そうな素振り」でいた。(テレビジョン(NHK)で私はそれを見た)

これこそが「民主主義」と彼は言う。

2015年7月14日火曜日

室温35℃越と性のグラデーション

    今どんな気持ち?外出するために家の窓という窓を閉めた。数時間後帰宅すれば室温は35℃を超えていた。25℃でさえ冷静でない私は狂っているみたいだ。この前「なでしこ」を肴にして「オトコ」を揶揄して投稿した。
    後に反省した。そもそも「オトコ・オンナ」を基準としての論は巷に溢れている。「オトコ・オンナ」は商売になるのだ。例えればテレビのドラマ然り。
    しかし「男女」の境界は限りないグラデーションにあるこの事を論じるべきであった。反省。
    それはそれとして。政府(自民・公明)は戦争法案を成立させると報道されている。この法案のために「内閣支持率」(公明も内閣の一員)は下がり、「不支持」が多数だと報道されている。法の成立有り無しはどうやら「沽券(コケン)に関わる 」問題に成りつつあるらしい。
    家庭内権力も然りであるがこんなゴリ押し件時にはオヤジは「股間にカカワル事也」と狂犬を発動しがちだな。オヤジのそのあとミジメなありさま。

2015年7月13日月曜日

『お知らせ』が届いていた

昨晩、犬との散歩から帰宅してみればこの「お知らせ」がポストに入っていた。仏式であるならば「50年」は節目だっただろうけれど、「20年」前にこんな催しがあったという記憶はない。だから「何で70年で?」と思った事だ。
これは、このクニの隅々にまで張り巡らされてきた組織とシンボル、「在郷軍人会、遺族会、寺、町内会、忠魂碑、国歌、国旗」。これら「国民動員」のための仕掛けが次々に動き出したということなんだろう。
それにしても「お寺(真言宗)の行事じぁ」創価学会員は参加しにくかろうと老婆心ながら思ったことだ(そうでもないのかな)。
ちなみに、この村の忠魂碑は1930年代に建られたという事だ。そうしてみれば、建てて15年を経て1945年に至りやっと?その中に祀る人々を得たということなんだろうか。
さて今から15年後、2030年には新たに祀る人々を忠魂碑は得ているであろうか。

久しぶりにスキャナーを動かしてみた。

2015年7月3日金曜日

なでしこ

クニの境を越えてヒトや物が大量に移動している現代社会。『グローバル』なんて言っていたけれど、最近トンと聞かないのはなぜか。私の思うに「政府が一つ覚えのように繰り返しているー国際情勢の緊迫化」と「グローバルな経済社会」このふたつが上手く噛み合って説明できないからではなかろうか。ことほどさように、時代の表面に浮かぶ言説はあぶくのようなものらしい。さてオトコのはびこる「政界」では国境の壁は高くそびえて見えるらしいがオンナの活躍する「スポーツ」では軽々と国境を超えて大活躍だ、『なでしこ』。聞く所によれば、彼女たちはアルバイトで生計を立てている者もいるという。少しく国内で有名になると外国製のスポーツカーを乗り回したりするが、そのくせ外国に行けばサッパリ歯の立たない者ども「オトコ」の選手もどこをどうとは言えないけれど見習ったらどうか。国境を越えて我々はどう活躍できるのか、ここにひとつのヒントがあるように思われる。

タダ

    大切なものに我々は金を払った記憶はない。絶え間なく吸う空気、互いを思いやる愛情。それはそれとして。さて、この世の沙汰はカネ次第らしい。広告収入を断ってしまえば「新聞は死ぬ」と信じている議員(国会)が現れた。どうしてなのか?言われた新聞からの「新聞は広告(金)だけで生きているわけではありません」との反論がない。私は「赤旗」・「毎日」を購読しているけれど(読者として)毎月少なくないお金を払っている。新聞が「広告だけ」で成り立っているとすれば私のこの少なくない出費は何だったんだろうか。新聞には「広告なんていらねーや、書いて配って。それで、読んでもらったヒトから金を貰ってやってゆく」みたいな「赤旗」みたいな矜恃はないものか。

2015年5月16日土曜日

「曇天にカタツムリ這う五月かな」。

「曇天にカタツムリ這う五月かな」。アルミで出来た門扉の上にカタツムリを見たのは昨日の事だった。今日見てみれば居ない。「オヤオヤどうしたものか」と、探してみれば少しく離れた門扉の裏の辺りにいた。今年もツバメがやって来た。去る年には、いちから巣を作ったのであるが、今年は出来合いの巣を「リサイクル」?して子どもを育てるつもりらしい。出来合いの巣の縁に少しばかりの泥を付け加えて巣の形にした。宿痾の病を患う我が母は痰を切る咳きをしながら巣を見上げている。「今年も来たな」と嬉しそうだ。遠くの家で幼子が「ママ~ママ~」と呼んでいる。さてツバメが逗留すると決まれば、つれあいは、我が家の犬どもの残飯を漁りに来るカラスがツバメの子どもを食っちまうのではないかと心配している。カラスってどこもかしこも尖っていて、その上、色艶も黒光りしていて「反社会勢力」(?)を想像したりする。アレ達にも苦労はあるだろうと思うが見かけると追うのは私の習いだ。