2015年10月19日月曜日

昨日と今日との日付が変わるころ

昨日と今日の日付が変わる頃、犬どもを連れて散歩に出た。オリオンが東の空に上がりかけていて、昴は天頂にある。私は上ばかり見て歩いていたが、犬どもは草に点いている獣の匂いばかりに興味があるらしい。犬に言わせれば「こんなに芳しい地上の匂いを知らないなんてバカ!」なんだろう私は。

2015年10月9日金曜日

2015.10.9の日記

しんぶん赤旗2015.10.9「潮流」http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-10-09/2015100901_06_0.htmlを読んでいたらあることを想いだした。加藤周一のベクトル。鶴見俊輔の「歴史学の生きた課題」。

ニュートリノ。「存在はする」のだが何でもかんでも反応なしに通過してしまう物質を「反応」を感知することで見つけたのだと読んだ。(ニュートリノに触発されて、ニューメキシコ、ニュージヤージー、ニューヨークを思い浮かべた。ところでニューバージニアは何処に有るのかしら)

「反応がなければ」その存在は感知されない。そういう事になろうか。

たとえば光。光を反射スルことでモノの存在は認識される。(良く磨かれたガラスは時としてヒトに悲惨な結果をもたらす。)いや、ヒトにひかりの知見をもたらす網膜もまた光を受けて反応する。

反応がなく認知されない存在が微細でとるに足らぬモノ(無視しても良いモノ)とは言えまい。イヤむしろ、そういったそういった存在によって我々の今が規定されているという考え方も認められるだろう。

加藤周一。鶴見俊輔。おふたりとも故人になられた。彼らは今まで述べた「見えないが見えている物よりも重要なモノ」を追求されて来た。

言葉はことばだ

しょせん言葉は言葉でしかない。しかし、母語ニホン語のヒトビトは人生最後の言葉を「もっと光を」英語で、「息が苦しい」をラテン語で発する事はまずあるまい。例外なくヒトビトは断末まのときでさえ母語の言葉を発する。このことは我らの使用する言葉がここにあるというだけで幸福な事なりと言うべきなのだろう。方言を駆逐し、植民地においてはニホン語を強要したこの国では。ところで、
我が気持ちを「言葉」に翻訳?して記述することを面倒なりと思い始めている。 
 発端は「毎日新聞」2015、10、4日2面の記事。見出しだけ記述する。「シリア遠のく和平・自国利益で介入相次ぐ・米大統領露を批判」記事の趣旨はロシアがシリアで空爆を始めたということ。それだけだ。それだけの中身に「シリアをめぐる相関図」まで添えて2面のトップに載せる毎日新聞編集部の意図は何か。それは「嫌ロシア」の世論の形成だろう。この記事には「自国利益で」アメリカが以前から空爆をしていた事、それへの批判は無論ない。だって客観報道だもの。母語の使われるこのクニは「自国利益」のためにどうしているかの記述もない。だって客観報道だものな。我が国においては縦横無尽に上空を占拠しているアメリカがシリアにおいてもそうである事、あった事に今更「毎日新聞」は驚かない。換言すればそのに独処にロシアが割って入った事が「ニュース」なんだろう。

内閣が替われば「提灯記事」(ヨイショ記事)、「ご祝儀記事」を書くことがマスコミの習いだった。しかし今回(内閣改造)の場合「毎日」は違った。わざわざアンケートまでとって、否47%、諾22%と報じている。毎日安倍と一緒に寿司をつまみつつあるわりには辛口だな。裏側から見れば安倍一族慢心の証ということであろうか。
 
「民主主義」とはなんだろう。多数に従うこと。少数の意見を尊重すること。そんなありきたりの説明に腑に落ちぬ思いがしていた。昨日のことだったか3.11震災犠牲者の身元不明遺体の特定過程がニュースになっていた。それを見て「そうなんではないか」と思った。「ひとり」を、タダのひとりであっても、(いやそれだからこそ?)多数と同じように尊重する。この事の意味。
多数者のひとり、少数者のひとりはどちらも「ひとり」として尊重されてあたりまえ。そんな価値観。
良くも悪くも「個人主義」などという物はそんな土壌からしか生まれないのではなかろうか。  

「右を見て左も見てもみんなが渡らなければ渡ってはいけないよ青信号」近くの交番のポスターに有ったような無かったような。

2015年10月5日月曜日

外付けHDDが

テレビに繋いである外付けHDDがカリカリ鳴りだした。巷では寿命は三年と言われているからそろそろ壊れるのだろうか。DVDに焼き直して保存するのが対策らしいけれどどうしようか。個人的な楽しみのためとか、ちょっとした備忘のために録っておいた物だからそこまで手をかけることもあるまいとも思う。それにしても紙にのみ記録していた時代に比べてこの電気時代の記録の脆いことよと思い知ったことだ。紙の時代に生まれた私のような者は記録媒体に対する過剰な思い込みがあるのかもしれない。私個人の記録などはどうでもいいとしても、公の記録も電気記録に置き換えられているからコレの寿命は大丈夫なんだろうか、それともうひとつ、公の記録で心配なことは私が難なくテレビ由来の情報を記録出来たように無限のコピー可能性がこの電気記録にあることだろう。「脆弱性と無限性」厄介な時代だな。そうだからだろうか「内閣法制局」は記録を残さないことにしているらしい。私のようなものでも備忘のための記録は残しておいたというのに。

2015年10月3日土曜日

ワーゲンのこと

フォルクスワーゲンの事。5年ほど前にこの会社の「ポロ(9N)」を中古で買った。つれあいが通勤と里帰りに使っている。この者は家の中の掃除はしないがクルマの中は綺麗にしているみたい。遠慮しいしい乗ってみると「良い車だ」際立ってどことして優れているわけではない。重いし、もたもたしているし、防音もいまいちでエンジン音・タイヤからの音も充分に聞こえる。窓の開け閉めは重くて鈍重だ。その上壊れやすい(半年ほど前にウオーターポンプを交換した)。しかしであるこのクルマは優れている。非力ながらもエンジンはスムースに吹き上がる。それだけではない、それはこういうことだ、タイヤからの情報(小石を踏んだ・縦縞の入った道を走っている・ナドナド)をハンドルに伝えてくるのだ。これはわたしの日常使いの軽四(スバル・サンバー。スバルR2)にはない事だ。ちなみに十年ほど乗ったスバルのレガシーはハンドルを切れば姿勢を変えること無く即そちらに向かうという優れたハンドリングの持ち主だったがタイヤの体験している情報をハンドルに伝えることはなかった(パンクしていても気づかないほどにガチガチに足回りを決めていた)。そんなだから、ポロのパワステの構造は如何になっているのか知りたいところだ。
さてワーゲンが環境対応の検査を、エンジン制御ソフトで誤魔化していたという件だけれど、私の住まいするこのクニならば検査組織に鼻薬を効かせてごまかしてしまうのではなかろうか。役所の不正は民間の不正よりも表に出にくかろう。
ワーゲンがどうなろうと私の知ったことではない。しかし同じような愚鈍で鈍重な、しかしクルマ車したクルマを作る会社があれば私はそのクルマを買うだろう。おそらく気にいって乗っているつれあいも反対はしないだろう。
たとえは悪いが、アフリカあたりで少年兵の持つ小銃はおしなべて「カラシニコフ」みたいだ。構造が簡単で精度も適当だが実用に耐える。ワーゲンの優れているところはそんなところではなかろうか。

これを書いた数日後、深夜四時過ぎのこと、二km離れたコンビニへ「ポロ」で行った、輸送業の大型トラックが何台も泊まっている時間帯だった。タイヤ一回転ごとにハンドルに答えが来る。言う所の「フラフラ」している状態だ。起き出してきたつれあいに「最近ぶつけたか?」と聞けば、縁石に乗り上げてホイールを曲げて以来「ぶつけ」てはいないと言う。「フラフラする?そんなんハンドルをシッカリ握っているから大丈夫だー!」とのこと。それでは対策にもなんにもなってない。
近くのカースタンドで前タイヤのホイールバランスでも取ってみようか。


2015年10月2日金曜日

2015年10.2の記録

ひとしきり降った雨が、突風混じりの強い降りを境にあがった。午前三時、昨夜の降雨で散歩をキャンセルされていた犬どもを連れて外に出た。東の空には冬の星座「オリオン」が居る。ほとんどの街灯がLEDライトに変えられて入ることに気付く。明かりのない家は空き家だ三軒にひとつはそのようである。かろうじて明かりの点くあの家もこの家もみんな私より年上のヒトが住まいする者と改めて気づく。私は年60を過ぎた、この半世紀は激動の期間であったのである。